親鸞聖人伝絵 下

第一段


浄土宗が生まれ盛んになり、聖道門(聖者になることを求める伝統仏教)は衰えていきました。

そこで奈良や比叡山の仏教の学者たちは「正統な仏教ではない念仏を法然が広めて人心を惑わしている。だから処罰するように」と、怒って訴えたのでした。

親鸞聖人は『教行信証』化身土巻に次のように書き記しています。

「静かに考えてみると、伝統的な仏教である聖道の諸教は、いつのまにか生き生きとした生命を失い、理屈だけの学問に変わり果て、もはや苦しみ悩む人々を救うような力をなくしています。唯一、浄土真宗だけが今の時代にあって人々の心に命を取り戻させる道として機能し、生きています。

けれども、他宗の仏教徒は、仏教を正しく理解しておらず、本当の仏道を知らないし、京都の学者も仏道の正しい方向を見失っている。そのような状態なので、承元元年(1207年)、興福寺の僧侶たちは後鳥羽上皇と土御門天皇に念仏の禁止と弾圧を願い出たのでした。《=承元の法難》

そのために浄土真宗を明らかにして下さった法然上人と、その弟子の数名は、朝廷から非道にも死罪に処されたり、あるいは僧侶の資格を剥奪され島流しにされたのでした。

私(親鸞)も処罰を受けた一人です。従ってもはや朝廷から認められた僧侶ではないが、俗世の垢にまみれ腐っている人間でもない。

私は朝廷お抱え仏教の弟子になったのではなく、お釈迦様の教えに帰依した者だから、以後、禿(=坊主頭という意味)の字を苗字に名乗ります。

法然上人や弟子たちは別々に辺ぴな田舎に隔離され、五年間もそこで暮らさなければなりませんでした。」

法然さまは土佐の国に流され、親鸞聖人は越後の国に流罪となりました。その他の弟子たちの死罪・流罪については省略します。

1211年になって勅免された(=天皇から罪が許された)時、親鸞聖人は先に述べたように、禿の字で署名した上申書を出したところ、陛下は深い感銘を受け、侍臣たちも大いに褒めたそうです。

罪は許されたのですが、親鸞聖人はすぐに京の都に帰らず、念仏の教えをひろめるためにしばらくの間越後の国に残ったのでした。




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