【その10】 どんな人でも仏様になるのですか

阿弥陀如来の本願には、一切の衆生を浄土に導き成仏せしめると誓われています。仏法に目覚めていなかった人でも、命終わって仏様になるのです。


「一所懸命おまいりに励んでいる私は助かるが、他の信心のない人は助からない。まして罪を犯した人は必ず地獄へ堕(お)ちる」というのが、世間の常識かもしれません。しかし、信心とは「誰もが阿弥陀如来の摂取の光に照らされている」ということに気づき、全て如来にまかせ疑わなくなった心なのです。親鸞聖人は「往生は、なにごともなにごとも、凡夫のはからいならず、如来の御ちかいに、まかせまいらせたればこそ、他力にてはそうらえ」(『御消息集』聖典567)と言っておられます。


「往生・成仏」というのは、単なるあの世での救済の教えではなく、人生の空(むな)しさを超える道なのです。他力の信心を得れば「現生十種の益(げんしょうじゅっしゅのやく)」を獲(え)て、人生のあらゆることが意味を持ち、意義あるものとなります。これこそがご利益(りやく)なのです。


しかし、信心のない人には、この生前のご利益がありません。ですから、ひとたび困難に直面した途端、一生の全てが空しいものと感じられるのでしょう。


この世の命の数だけ種々様々な人生があり、そのすがたから、私たちは多くの事を教えられています。やがて命が終わるときが来ること、そして「罪悪生死の凡夫(ざいあくしょうじのぼんぶ)」と言うほかない自分自身の姿……。


他力の信心においては、信心に目覚めた人もまだの人も、同じこの本願の大地の上を生き、人生を終えていきます。そして、誰もがみな阿弥陀如来に摂取され、必ず仏様になるのです。


次の質問【その11】へ

Q&Aの目次へ