【その6】 阿弥陀如来とお釈迦様はどうちがうのですか

お釈迦(しゃか)様は約2500年前に実在され、人々に仏法を説かれたお方です。一方、阿弥陀如来(あみだにょらい)は歴史上の人物ではありません。色も形もない「法性法身(ほっしょうほっしん)」のお名前です。

「釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、王舎城および舎衛国にましまして、大衆の中にして、無量寿仏(むりょうじゅぶつ=阿弥陀如来)の荘厳功徳(しょうごんくどく)を説きたまう」(聖典168)とあるように、お釈迦様の教えによって、阿弥陀如来のはたらきを明らかに知ることができるのです。

そこで、お釈迦様のことを「教主(きょうしゅ)」、阿弥陀如来を「救主(きゅうしゅ)」と言うこともあります。



善導大師(ぜんどうだいし)は、信心が起こる時の心の内景を『二河白道の譬喩(にがびゃくどうのひゆ)〔水火(しいか)二河の喩(たと)え〕』として表現されました。(聖典219〜221)


お釈迦様は、東の岸(この世)から「この道を尋ねて行け」と勧め、阿弥陀如来は西の岸(浄土)から「汝一心に正念して直(ただ)ちに来(きた)れ」と呼び招きます。


私たち衆生は、こちらの岸から「行け」と発遣(はっけん)する釈迦如来の声と、彼の岸より「来たれ」と招喚(しょうかん)する阿弥陀如来の声を聞いていくのです。釈迦と弥陀、この二尊(にそん)の意(おんこころ)に信順し、信心に目覚めて迷いを離れ西の岸に到れば、阿弥陀如来のすがたを見て慶喜(きょうき)する、と語られています。


親鸞聖人は、善導大師の教えを「釈迦弥陀は慈悲の父母 種種(しゅじゅ)に善巧方便(ぜんぎょうほうべん)し われらが無上の信心を 発起せしめたまいけり」(聖典496)という和讃(わさん)に詠(よ)まれました。

また、「まことの信心をば、釈迦如来・弥陀如来二尊の御はからいにて、発起せしめ給い候う」(聖典590)、「往生の信心は、釈迦・弥陀の御すすめによりておこる」(聖典562)とも教えておられます。


釈迦・弥陀二尊は、一方は実在の人、他方は法性法身の名ですが、共に「如来」と称されます。それは、どちらも私たちに本当の信心に目覚めよと励ましておられる「真実のはたらき」だからです。


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