日記帳


■2003年11月分■
11月1日(土)…「馬さん、ごめん」
日と明日の2日間、山口から馬さんが関西にやって来ることになっている。

日の夜に食事を、とBBSで提案したものの、私の予定変更で食事を今晩に変更して欲しかったのだが、連絡が取れない。

遅く、ようやく馬さんから電話が入った。

「日本橋のホテルから掛けている」とのことで、「今からどう?」と誘ったが、往路の夜行バスで眠れなかったので、もう寝るとのこと。

ちらの気変りを詫び、しばしプロ野球ネタで盛り上がる。


11月2日(日)…「つくば市へ」
くばの松っちゃんから「元気でいますよね!?3連休はお仕事ですか?」というメールをもらっていた。

日の午前中に1軒法事があったが、2日の午後から3日にかけて休みがとれそうだったので、「仕事のつもりでしたが、予定を見ると休みを作れそうです」と返信。

っちゃんから「初日は家族でつくばから千葉の単身宿舎へ行く予定ですが、あとはつくばにいる予定です。よかったら遊びに来てよ」という返信が。

かし、奥様のお許しなしに男同士で勝手に決められない。「Chikaちゃんのお許しがいただければ、参上つかまつります」と発信。

度はChikaちゃんからの返信。「茨城に来てくれるということで…是非是非、お越し下さい!!(^^) みんな、楽しみに待ってま〜〜〜す。 上野を出る頃に、連絡して下さい。 ひたちの牛久から、走って来て下さい。^^;) うそうそ、迎えに行かせて頂きます。安心して下さい。」

うして、つくばの松っちゃん宅へお邪魔することとなった。

後1時30分に天王寺を出発。新幹線で東京駅へ。上野から常磐線に乗り継ぐ。東京は大阪よりも活気があるように感じた。

寄り駅のひたち野うしくに着いたのは午後6時15分。松っちゃんと5人の子ども達が車で迎えに来てくれていた。

hikaちゃんや子ども達とは、去年の12月以来の顔合わせであった。子ども達とTVゲームをしたりお風呂に入ったり。寝静まってからは大人だけで深夜(明け方近く)まで話し込む。


11月3日(月)…「つくば・2日目」
一番の早起きはChikaちゃんである。みんなが起きる前から家族8人分の洗濯をするのだから、頭が下がる。

人の披露宴にChikaちゃんが出かけ、更かしのダメージで眠ってしまった松っちゃんに代わって、子ども達が私と”遊んで”くれた。特に長女のミドリちゃんが、初めてのゲームで戸惑う私をいろいろと庇ってくれた。6人兄弟の一番目だけあって、やさしい「お姉ちゃん」である。

かし、私に一番の甘えるのは5歳のレイナちゃんであった。「帰らないで、ずっと居てよ」と言ってくれるが、私にも仕事がある。午後7時、ひたち野うしく発の電車で帰途についた。



11月4日(火)…「西宮の叔母の家へ」
日は、西宮の叔父の月命日。月命日は、お西の本寺に代わって私がおまいりしている。

日は「西宮の皆さんと話がしたい」という我が父の希望があり、二人で西宮に伺った。

行の後、いつものことながら上品かつ上手な手料理をごちそうになった。

度、NHKの衛星放送で「おしん」が放映されていて、父と叔母のお母さまとで、戦前の日本について話に花が咲く。


11月5日(水)…「習礼と区仏例会」
後4時30分から、難波別院にて来る12日の堺支院報恩講の稽古。

院へ向かう準備をしていて、1軒だけ父に檀家おまいりを頼むのを忘れていたことに気付く。大急ぎでカブを走らせ、おまいりに行き、事なきを得た。

礼の後、一緒に稽古をしたY氏と共に別院近くのソバ屋へ。(ごちそうになり、すみませんでした。)

王寺へ戻り、午後7時から四天王寺本坊での天王寺区仏教会の例会(兼、源泉徴収税と府市民税の納付)に出席。


11月6日(木)…「全国准堂衆会事務局会議」
後4時から難波別院で全国准堂衆会事務局会議があり、バイク(VFR400R)を引っ張り出して会場へと向かう。

つもの会議室に向かったが誰もいない。日時の連絡は聞いているが、どの部屋かの連絡は受けていない。教務所に入って行くO会長が見えたので追い掛けたが、会長は教務所を通り抜けてどこかへ行ってしまった。

務所員に会場を尋ねたところ、その人もご存知ではなかったが、わざわざ別院の管理課まで調べに行って教えてくださった。

件は、来年に行う総会と平和法要について。

会後、ミナミで食事をすることになり、私だけバイクで先に店へと向かったが、バイクを置く場所探しでもたつく間に、他のメンバーも到着。

次会は、年輩組と若手組に別れ、若手組はラウンジへ。”男と女の違い”で話が弾む。

度のことだが、店を出てから御堂筋に止めたバイクにたどり着くまで、スーツに身を固めた「呼び込みの兄さん」からの攻撃に耐えなくてはならないので大変。

ルメットを持ち、バイク用のジャンパーとジーンズというこの”変な格好”を見れば、客ではないことは一目瞭然なのに…しつこいぞ!!


11月7日(金)…「坂東曲の習礼」
後7時30分から、平野の慧光寺で坂東曲(ばんどうぶし)の習礼(しゅらい=稽古)。

つも来場者の車で境内は満杯になるので、バイク(VFR)で会所に向かう。しかし今日は出席者が少なく、駐車スペースにも随分と余裕があった。

日も昼間の最高気温が25度の「夏日」であったので、声を張り上げ身体を前や左右に振りながら勤める坂東曲を始めたら、たちまちに汗が噴き出してきた。

えば、2日から今日まで、連日の夜間外出であった。


11月11日(火)…「大阪府佛教徒大会」
後3時30分より、ホテル日航大阪で、大阪府佛教会による「佛教徒大会」シンポジウムを拝聴。

イトルは「少年犯罪と宗教・教育」

年犯罪が大きく報道されているが、少年による「殺人事件」は、統計上は戦後一貫して減少してきている。しかし、犯罪の動機が理解できない事例が最近現れるようになった、という報告があった。

人のパネラーから色々な角度から分析の話はあったが、「それでは、今後どうして行けばよいのか」という方向は見いだせなかった。

りに、ホテルの喫茶室へ。カプチーノ(コーヒー)一杯700円を注文。

てきたのは一口で飲み干せる小さなカップ。紅茶の方が良かったか?

11月12日(水)…「堺支院報恩講・上海訪日団歓迎会」
後1時30分御始めの堺支院報恩講に出仕。

12時頃、堺に向けてさあ出発という時に、中学校から電話。「上海姉妹校からの生徒今日から16日までの予定で来日している。同窓会事務局長さんに、今夕4時30分からの歓迎会に出席して欲しい」との由。

恩講の後、支院の近くの檀家さんのおまいりがあったので、法衣のまま中学校へ向かう。しかし、4時30分の歓迎会開式には間に合わなかった。連絡が早ければ予定の変更が出来たのに…。

海から来日したのは生徒2名、教師2名。
生徒は英語も話せるが、先生には通じない。通訳無しでは話ができなかった。

「通訳が手配できない日があり、困っている」と校長・教頭から聞き、今春上海から帰国した実姉を通じて手配する旨、申し出た。

姉が引き受けてくれることになり、普段は学校の役にたてない同窓会の面目が立った。

11月13日(木)…「第2組報恩講」
後6時から即應寺にて大阪教区第2組の報恩講。

職の足が悪いので、当初から私が参勤する予定だったが、偶然通夜と重なり、そちらは住職が勤める。

要後の法話と食事は失礼して、7時30分から例月の輪読会に出る。会所の寺院の報恩講出仕を許される。


11月14日(金)…「声明の稽古」
後7時30分より、声明の稽古。正信偈句淘と伽陀七章を見ていただく。

坊の報恩講の御伝鈔拝読の内示を受ける。本番まで中2日、どれだけ準備できるか。


11月15日(土)…「上海訪日団送別会」
後6時から、月華殿で上海訪日団の送別会に出席。今日はおまいりが多く、式場に入るのが刻限間際となり焦る。

回の訪日団は、SARS流行の影響で当初7月の来日予定が変更になり、日程も短縮されたそうだ。

窓会会長が所用で欠席となり、事務局長の私が出席したのだが、来賓扱いをしていただき、急遽スピーチの指名を受ける。

女各1名の上海校の生徒は、非常に明るく積極的な子で、宴会でカラオケを勧められても物怖じする事無く歌ってくれた。

国の方は友情や恩義を大切にされる事を感じた。「姉がつたないながら通訳を務めた」と話をしたら、先生から「姉さんに礼をしたいので、住所を教えて」と求められた。住所と一緒に同窓会HPのURLを書いたが、お開きの後でドメインが違っていたことに気付く。


11月17日(月)…「御坊報恩講 初日」
野御坊報恩講に出仕。

後2時から逮夜が勤まる。淘八、和讃二重の2句目、間で切る個所で早く声を出してしまい、一臈(外陣の主席)から睨まれる。

要後、お斎(とき)をいただいている最中に、御伝鈔拝読の指名を受ける。

日も法事と葬儀のお骨揚げ等で駆けずり回っていて、実のところは拝読について不安を抱えたまま、この日を迎えてしまった。

後7時、初夜勤行に続いて御伝鈔の拝読。

の参勤者が卓持ち・燭持ちの掛役を勤めて下さり、生まれて初めて自坊以外で御伝鈔を拝読させていただくこととなった。

古で不安のあった個所のうち、幾つかは本番でも読み間違えたが、やってしまったものは仕方がない。失敗を後に引きずらないで気持ちを切らさないことが大切、と読み進める。

み進むにつれて、大汗が吹き出てくる。そのため、眼鏡がずり落ちそうになる。しかし両手で巻物を持っているので、戻すに戻せない。

分では気付いていない「癖」や、覚え間違いがあるもので、終了後、先輩から修正点の指導をいただいた。


11月18日(火)…「平野御坊報恩講 2日目」
野御坊報恩講、日中法要に出仕。

始めは午後1時30分、伽陀五章、文類偈早草、念仏讃は淘八。

初から非常に高い声でお勤めするのだが、これでは外陣は最後まで声が続かない感じがしたので、声が出なくなる状態に陥らないように意識した。

淘の連続する個所では後半皆が疲れて音量が落ちるので、その部分での下支えに回った。

要後、他の出仕者に尋ねたところ、「最初からいっとかんかい(後の事は考えないで、全力で声を張り上げるように)」という見解。


11月19日(水)…「会議と習礼」
後5時から難波別院での「得度準備講習テキスト作成実行委員」の会合に出席。

家まいりの続きで、法衣のまま出席。

、3の修正個所があったが、昨年と同じテキストで講習会を行うことになる。

式な出版物にしていく話が出ていたのだが、もしそうなった際は「とても追加原稿を執筆できる状態にない」と断るつもりであったが、今回は見送りとなり、ホッとする。

議の後、7時から「大阪楽僧 温雅会」の稽古の手伝い。

年の東本願寺報恩講の楽(がく)は、大阪の担当である。
21日からの本番を前に、伽陀・三重念仏・回向の附物(つけもの=声に雅楽の楽器の音を合わせ、音が落ちないように助ける)の稽古をするので、声を出す役目として私とM先輩が呼ばれたのである。

勢の楽器に対して声を出すのは二人だけで、楽器に負けないように大声を出したが、昨日、今日と連戦で、最後は声が嗄れた。

際のお勤め(声)と楽僧が使用している楽譜との微妙なズレが見つかった。事前に修正ができたのだから、お役に立ったのだと思う。

僧と准堂衆が共に稽古をする場はもっと持たれても良いのでは?


11月21日(金)…「本山で会議・天王寺で会合」
日から東本願寺の報恩講。(28日まで)

仕はしないが、午後4時から全国准堂衆会役員会があり、東本願寺式務部1Fの会議室へ出向。

昼過ぎに千里中央の檀家さんへまいり、お寺には戻らないで新大阪駅で昼食を取り、そのまま京都へ。

山前の法衣店で略念珠を購入。(常に使用していた念珠の房が「僧分向きではない」という指摘を受け、買い換えることにした。)

議の後、今度は天王寺で天中同窓会の事務局員と会うため帰阪。

旦お寺に戻り、私服に着替える。

王寺へ向かう途中、警察署前の大通りを逃げる無灯火のワンボックス車、追う白いクラウン。

向車線を走り逃げていたワンボックス車だが、交通量の多い交差点で行く手を阻まれ、追いついたクラウンの運転手から怒鳴られていた。

れからどうなるのか興味はあったが、集合に遅れてはならないので、現場を後にした。

窓会の話は、私が一手に引き受けていた仕事を後輩が分担してくれる、というものであった。

織の未来像については、後輩達とは少し見解が異なるところもあるが、とにかく頼もしい後輩たちに任せることにする。


11月29日(土)…「危機一髪?」
雨模様で、風の強い朝だった。

近所の檀家さんへおまいりに行くのに、自転車で行くか屋根付きのスクーターで行くかで迷っていた。

イエットの為には自転車だし、今の降りなら傘を差しながら走れる。しかし、これから雨が強くなるかもしれない…ということで、バイクを選択した。

寺を出発し、角を曲がった先の信号で停車した時、視界の左に、空から巨大な白い物体が落下するのが見えた。

ルの2階に張り出して付けられていた電飾看板が、突風で壁から外れ、歩道に落ちてきたのだった。

い真下に通行人はおらず、人的被害は無かった。

さにそこは、自転車を選択したら私が走っているはずのルート上であった。バイクを選んでいなければ、「落下した看板が直撃 お坊さんが死亡」という記事が夕刊に載ったのかもしれない…。



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