日記帳


■2003年 3月分■
3月5日(水)…「会合のハシゴ」
後4時から、中央区本町にある難波別院(南御堂)で全国准堂衆会の事務局会議。

家まいりの続きで会議に参加。

時すぎに会議は終了し、食事の誘いを断って急いでお寺へ戻る。

急ぎでスーツに着替え、四天王寺本坊での天王寺区の仏教会の会合へと向かう。

税関係の世話役(理事)を引き継ぐことになり、これから毎月この仏教会の集会に参加するのだが、各宗派の僧侶が集まっていて、真宗(お東)からは私だけでほとんど知らない方ばかり。

に小学校の同級生のお父さんがいて、声を掛けてくれたが、人の顔と名前を覚えるのが苦手なので、全員を把握できるまでどれくらいかかるだろうか。


3月8日(土)…「同朋大会で発表」
阪教区の大谷派寺院は、27の組(そ)というグループに別れている。天王寺区・浪速区と、西成区及び阿倍野区の一部の寺院20ヶ寺が所属する「第2組」の「同朋大会」という行事が1時半から難波別院の同朋会館で開催された。。

行の後、講師の先生からの講演の前に、恒例の「同朋の声」の発表がある。

朋の声は、一般信者と寺族(お寺の人)が1人ずつ話をすることになっている。

回の寺族の発表者は、私である。

表者として1ヶ月ほど前に指名をされていたのだが、雑用に追われてろくに準備ができなかった。いっそぶっつけ本番で臨もうかとも考えたが、本番が近づくにしたがって「弁慶の勧進帳」をやり遂げる自信が湧かなかったので、一夜漬けでとにかく下原稿だけは作成した。

直な所、疲れた頭で書き起こした原稿を余り暗記できていなかったので、私の前の信者さんが発表される間も自分の原稿を校正しながら暗記に努めたのだが、「やはり舞台に立つ以上は、聴衆を見て話をしないと。原稿ばかり見てうつむいて話をしていてはいかんな」と感じた。

分の番になり、演台に上がる。「兄がいるのにも関わらず何故次男の私がお寺の跡継ぎとなったのか」というところから話を始め、「次期住職としての覚悟が出来たのは、大学の卒論を書く時に『仏教を理解するヒントを掴み、それまでの暗闇が晴れるような感じがしたという体験』があったからだ」という、以前に教化センター通信で「現場の声」欄に書いた文章を下敷きにより詳しく話を進めていった。

とんど原稿を見ないで聴衆をあちらこちらと眺めていたら、父親や檀家さんが来ているのが目に入った。余裕はほとんどなかったのだが、笑って欲しいところや相づちが欲しい場所できっちり反応があったので、次第に調子が出てきた。

は言え、今回は自分は「前座の発表者」であって講師ではない。色んな言葉を引用をしたり内容を詰め込んでしまったら進行の時間も狂わせてしまうな…なんて考えながら、適当なところで話をまとめた。

を聴いてくれる人の反応がいいと、自然と言葉が続くものである。今回は熱心な門徒さんが集まってくださっている会なので、非常に話しやすかった。

台を降りる際には、原稿に書きながら触れられなかった部分への心残りはあったが、時間的には丁度よかったので、まあ良しとしよう。


3月11日(火)…「カンボジア平和法要の反省会」
「反省会」という名称の会合に出席。実は、1月末のカンボジア・ベトナム法要旅行のメンバーでの「食事会」である。

互いに持ち寄った旅行中の写真を交換したり、道中を記録したビデオを観ながら歓談。

場はミナミのとある料亭で、会費が15,000円。

段は1,500円のファミレスディナーで満足しているような”貧乏性”の身にはこの店の良さが理解できないのだが、こんな私は「コドモ」なのだろうか???


3月13日(木)…「中学校の卒業式」
窓会事務局長として中学校から招待を受け、卒業式に出席。

回が初めての参加であったのだが、「同窓会会長の代理」という気軽な気持ちで、ごく普通のスーツで登校した。

け付けを済ませて控えの応接間へ通されて初めて自分が「来賓」待遇である事を実感。

性はほとんどが略礼に白ネクタイを着用している。

が始まり、久しぶりに中学校の校歌を歌った。卒業する3年生と見送る2年生を合わせて250人も居るにしては、ちょっとか細い歌声であったのには不満を覚える。まあ、難しい年頃だから、ノリが悪いのも致し方ないか…。

が進行し、「来賓の紹介」があった。司会者の教頭先生が順番に招待者の名前を呼ばれる。そこで立ち上がって「おめでとう」など何か一言述べて着座することは、すぐに飲み込めた。

んだん順番が近づいてきた。ここはスピーチの場ではないが、「おめでとう」の一言では芸がない…折角同窓会を代表して来ているのだから、会をアピールしないと勿体ないし…と考えているうちに、名前を呼ばれた。

こで、「卒業おめでとうございます。4月29日の同窓会総会でお会いしましょう」と挨拶して着座。

頭先生に受けたのか、すぐに「ありがとうございます」と合いの手が入った。


3月14日(金)…「京都で役員会」
後4時から、東本願寺内で全国准堂衆会の役員会。会議の資料を準備していて刻限に遅れそうになり、新大阪から新幹線を利用して京都へ向かう。

海道や金沢、福岡からも駆けつけた役員は総勢8名。

0人分の席しかない狭い会議室で、出席者の大半はタバコを吸う。息苦しくてたまらないのだが、自分が一番の若造なので「会議中は禁煙」とはとても言えない…。

に大阪へ戻って、法事の為に帰阪している松っちゃんに連絡をとる。同窓会の後輩にも連絡して、我が家へ集合。

輩のハラサワ兄が「トランプをしよう!」といって、何やら資料を配り始めた。

「よくわかるナポレオン講座」……??……ルールをインターネットからダウンロードしてプリントしてくれたのだが、一読しただけではとても理解できない。実際にゲームを進めながら逐一説明をしてもらって要領を覚えることになった。

応のルールは理解したが、今日のところは勝つための方法は理解出来ず終い。しかし何とも奥深いゲームである。私は他のメンバーよりも理解が遅れていて、コツをつかんだみんなが楽しそうにしていて、ちょっと悔しい。

開きになり後輩たちは帰り、松っちゃんはここに泊まることになったのだが、すぐに2人ともバタン・キュー。

ポレオンのルールを知りたいかたはこちらへ。


3月15日(土)…「同窓会で夕食・会議」
日は松っちゃんの父君の七回忌法要。宗恩寺本堂において、私が導師を勤めた。

要と食事の後、車を出して松っちゃんと彼の母君や弟夫婦、それに荷物を彼の家に届け、昨日来てくれた後輩が同窓会のみんなで遊ぶために借りてくれている会館へと向かう。

でにハラサワ兄とホリ、テラシマが来ていた。

則七並べをやり、敗者はノートパソコンで同窓会HP用の原稿を書く。敗者以外で再び変則七並べ。敗者が先の者と交替して原稿の続きを書く…のくり返し。

っという間に時間は過ぎ、午後6時からは中華料理店に予約を入れているので、会館をあとにした。

めて入った北京料理の「百楽」。店内に入って度肝を抜かれた。ウェイトレスの衣装が、深いスリットの入った真っ赤なチャイナドレスといういでたちであった。今回は野郎ばかりでなく、博士号を持つ後輩の女性も参加しているのに、まずかったかな…。

阪でごく最近、とあるセンセイが、とある学校の卒業式にチマ・チョゴリやチャイナドレスなど、いろんな衣装が入り乱れた様を「キャバレーとちがうかと思った」と発言したことで物議を醸したが、百楽に足を踏み入れた瞬間、別世界に入ってしまったような錯覚が生じたのは確かである。

して嫌いなわけではない。ただ、ウェイトレスをいやらしい目で見たいが、そんな目で見てはいけない…目のやり場に困る、という葛藤状態が自己嫌悪を生むのである。

すがに中華料理。七人でたらふく食べて飲んだのに、会計は総額1万6千円余り…先(3月11日)の料亭と比べて、百楽のこの安さ!

バヤシさんだけは「研究所でお腹を空かせたプラナリアたちが待っている」とかで帰っていったが、それ以外の6人で宗恩寺へと向かう。

リ君が作成してくれた新旧規約を対照させた資料を見ながら、同窓会の規約改正草案を全文にわたって再検討。

討会が終了した時には、午前1時30分になろうしていたが、ここからふたたびナポレオン大会に突入。いつも早寝・早起きのテラシマ君は夜更かしが本当に辛そうで、ちょっと申し訳なかった。

人分しか布団を用意していなかったので、今宵はホリとハラサワ兄が泊まることになり、松っちゃんは実家へ。


3月26日(水)…「今日買ったCD」
家まいりの帰りに日本橋の電気屋街に出たので、CDショップに入る。

初に山下洋輔の最新アルバム「Ken-Kon」を探したが、「日本のJAZZ」の山下洋輔のコーナーをいくら探しても見つからない。

「もしや」と思い、「邦楽」のコーナーで探したところ、すぐに見つかった。……林英哲の和太鼓と山下洋輔のジャズピアノの競演なのだが、演者名が「林英哲 meets 山下洋輔」となっている為、「林英哲の作品」として認識されていたのであった。(内容は、両者が激しくぶつかり合う演奏で、決して林一人、あるいは山下一人の作品ではない。販売店の認識不足ですね。)

いでに、松っちゃんの奥さんの弟がメンバーの「鬼太鼓座(おんでこざ)」のCDも購入。ただし、弟君が加入前の作品である。

英哲氏も鬼太鼓座出身だった。

らに、夏川りみの「涙そうそう」を購入。

画物のコーナーでは、「歌うヘッドライト〜コックピットのあなたへ〜」というシリーズが並んでいた。

の中の1枚のナレーションをしているのが、岡 雅子さんであった。

「いすゞ歌うヘッドライト」と聞けば、深夜ラジオをよく聞いていた人ならピンと来るはず。トラック運転手向けの全国ネット番組だったのだが、ごく最近打ち切りになってしまった。

でこそNHKラジオも24時間放送をしているが、私が深夜放送を聞き始めた小学生時代には、午前3時〜5時の間の番組は「オールナイト・ニッポン第2部」といすゞ自動車提供の「歌うヘッドライト」、そして日野自動車提供の「走れ歌謡曲」だけであった。

西ではオールナイト・ニッポン第2部は近畿放送(KBS京都)がネットしていて、我が家では綺麗に聞くことが出来なかった。

がてこの時間帯には「歌うヘッドライト」を選択するようになっていった。

の頃一番好きだったDJが木曜ヘッドライトの岡 雅子さんであった。

さんのデビュー曲(そして唯一のレコード?)の「夢細工」が毎週掛かり、その切ないメロディーの虜になっていたのだが、岡さんのことは、つい最近までインターネットで知るまでは顔は当然のこと、名前の漢字さえも知らなかったのである。(お顔は、知らないままの方が良かったかも…岡さん、ごめんなさい。)

の岡さんがナレーションを勤めている上に幻の「夢細工」が収録されたこのCDを買わない訳にはいかない。

らに感激の1枚を発見。

「パックインミュージック」というタイトルのCDがあった。

れもTBSラジオの深夜番組に因んで当時のヒット曲を集めた企画物CDだが、ここに柴田まゆみの「白いページの中に」が入っていた。

の曲も小学〜中学時代に聞いていたヤマハ「コッキー・ポップ」という番組で掛かっていたのだが、カラオケにも入っているにも関わらず世間では滅多に耳にしない幻の名曲であった。

近ネットで分かったのだが、柴田まゆみさんはポプコンでグランプリを取ったものの、プロ歌手にはならなかったので、「白いページの中に」1曲しかレコードを出していないので、その後全く名前を聞くことが無かったのである。

年か一昨年に発売されたヤマハのポプコンの曲を集めた10数枚組のボックスセットの中にも入っていたのだが、その1曲の為に数万円かける訳にもいかないので、別の機会をずっと待っていたのである。

は去年に遡るが、小学校低学年以来耳の底に残っていた「幻の曲」のオリジナルを入手できた。

れは、「チューインガム」という姉妹が歌う「風と落ち葉と旅びと」と「ゴリラの歌」そして「海の見える放送局」が収録されたゴールデンベストである。

学校1〜2年の頃に通ったヤマハ音楽教室でもらったレコードの中に、「風と落ち葉と旅びと」と「ゴリラの歌」が入っていた。

ジオ関西(AM神戸)でジングルとして流れてくる「こっこは〜海の見える(見える)放送きょ、くうーう〜 ラーララ・ララララ〜」という美しいハーモニー。


い頃に私が聴いていたのは「風と…」と「ゴリラ…」はオリジナルではなくて別のコーラス隊が歌うカバー曲であったため、また、「海の見える放送局」はラジオ関西が作った単なるジングルだと思っていたので、この3曲すべてがチューインガムの歌であったという事実をインターネットで知るまで、何と長い年月が掛かったことか。

ットでの情報では、過去にCD選書シリーズでチューインガムの作品が復刻されたことがあったらしいのだが今は廃盤になっていて、ネットで扱っているところを見つけて注文をしたのだが、店自体が潰れたのか一向に応答がない。

Dショップに立ち寄る度に気を付けて見ていたところ、ようやく今回の再復刻版に出合うことができたのであった。

年少のシンガー・ソング・ライター(13歳と11歳)といわれたチューインガムのデビュー曲であり、かつ唯一オリコンチャートベスト20入りした歌が「風と落葉と旅びと」。そして大人になって解散するまでの約10年間(実働6年)から選ばれた16曲を聴きていると、2人が成長していくにつれてコーラスや声質が劇的に変化していくので、最初と最後の曲を比べたら「ほんまに同じ人の歌声なの?」と誰もが思うだろうし、何故か頭がクラクラする感じもする。それでもハモリのセンスが抜群の姉妹デュオ、先の3曲以外にも良い曲がいっぱいで、求め続けた期待以上に素晴らしい1枚であった。


3月30日(日)…「おら東京さ行くだ」
一の甥から鉄道旅行の付き添いを頼まれていた。

1日はお寺の休日なので、春休み中の甥に「どこへ行きたい?」と尋ねた。

に行き先が思いつかない様であったが、「サンライズ・エクスプレス(寝台特急電車)に乗りたい」というリクエストがあった。ので、今晩の特急サンライズ瀬戸・出雲で東京へ出て、というプランを考えた。

ンライズは大阪を午前0時35分に発車し、東京へは7時8分に到着してしまう。これでは十分に睡眠がとれないので、新幹線で岡山へ行き、そこからサンライズで東京へ。東京ドームなどを見学して新幹線で帰阪する、というプランを立てた。

方、おまいりの仕事を終えてから、ターミナルを避けて小さなJR駅のみどりの窓口へ行く。

ンライズの寝台券を申し込んだが、係員は何度も発券作業を試みるものの、空席が見つからないようす。

ンライズはほぼ全車両が2階建て構造で個室寝台になっているのが特徴で、人気列車の一つである。もしも切符がとれなかったら今回の旅行は取りやめるしかない。

つこと7〜8分、後ろに順番待ちの行列が出来はじめた頃、ようやく切符がとれた。

れからミナミの繁華街にある金券ショップへ向かい、岡山までと、東京からの復路の新幹線の切符を購入。

後9時すぎ、甥と共に出発。地下鉄、JR在来線を乗り継ぎ、新大阪で新幹線に乗る。

後10時ごろに岡山駅に到着。東京方面の在来線ホームでサンライズの到着を待つ。

京行きブルートレイン(客車寝台列車)の「あさかぜ」が定刻より遅れて15番線に到着。直後にサンライズ瀬戸が14番線に到着。

イヤ通りならあさかぜ(22:19岡山発)とサンライズ(22:20岡山着)が岡山駅で並ぶことはあり得ないので、珍しいシーンである。

松発東京行きのサンライズ瀬戸は、出雲市発東京行きのサンライズ出雲と、この岡山で連結をする。

道に詳しい旅行客が大勢、連結を行う場面を見ようと集まってきた。

雲の到着を待つ間にあさかぜは発車。

戸と出雲の連結が完了したので、我々も列車に乗り込んだ。

車が動き出してしばらくは車掌が検札に来るのを待っていたのだが一向にやって来ない。甥と連れだって車内を見学しに出かけた。

回りして部屋に戻り、さあ寝ようとした時に車掌が検札に来た。

れでゆっくり寝られる。


3月31日(月)…「東京見物」
急サンライズに乗るのは2度目(前回は臨時列車の「サンライズゆめ」だった)、寝台列車通算では9度目くらいだが、今回も熟睡は出来なかった。

京駅についたものの、まだ午前7時すぎ。観光施設はどこも開店前。しかし、ここで朝食を食べていては朝の通勤ラッシュに巻き込まれてしまう。「孫が東大を志望するキッカケになるかもしれないので見せてやって欲しい」というお祖父さん(宗恩寺住職)の命令通り、東大を目指してお茶の水駅へ。

を出たところに丁度「東大構内」行きの都バスが来たので乗車。

の名の通り、バスは東大のキャンパス内へ我々を連れて行ってくれた。

ンボロの建物と真新しい高層ビルの教室が混在している東大キャンパスだが、印象としては「古い」「暗い」という感じを持った。甥も東大に悪い印象を持ったと思うので、教育上は逆効果だったのでは?

食で朝食をと目論んでいたが、ここも開店前で断念。赤門で記念写真を撮り、外の喫茶店でモーニングを注文。

れから東京ドームへ向かう。

1時30分からドーム球場内を案内してくれる「ドームツアー」があるので、早速申し込んだ。

れまではドームに併設された野球体育博物館(野球殿堂)を見学することに。しかしながら、ここも開館まで30分弱あったので、ドーム脇の書店で立ち読みして時間をつぶす。

イドのお姉さんに引率されて、約50名のドームツアーご一行様の出発。

ーム球場の屋根は、場内の気圧を外よりも高めて(0.3%高い)風船のように膨らませている構造のため、入り口は回転扉になっている。中に入った途端、僅かに鼓膜が押された感じがした。

初にドーム建設のビデオを見た後、1塁側ブルペンへ。

塁側(ジャイアンツ側)のブルペンでは3人が、3塁側(相手チーム側)では2人が投球練習出来るようになっていると説明があった。

いをつけた理由の説明は無かったが、(なんで両方とも同じにせえへんねん?ジャイアンツに有利なように、球場会社と結託してるんとちゃうんか?)と、いらぬ勘ぐりをしてしまう。

度は一塁側のダックアウト、そしてグラウンドへ……ダッグアウト前のごく狭い範囲のファウルゾーンにしか立ち入らせてもらえない。

っと人工芝の上を走り回りたかった。

野スタンドを見学してツアーは終了。

場から外へ出る時には回転扉ではなくスライド式のドアを開けてもらい、ドーム内から吹き出す風で内外の気圧の差を体感させてくれた。

アをくぐる場所の風圧は想像以上に強く、このドアから外へ出ることは出来ても中に入るのは難しいと感じた。

食、そしてドーム内のショップで甥の買い物に付き合った後、秋葉原近くの「交通博物館」へ向かう。

ーム球場も2度目なら、交通博物館も2度目。(それぞれ別の機会であるが。)

車のマスコン(運転)ハンドルを回したら、いきなりボルトが折れて取っ手が外れてしまった。(決して乱暴に扱ったわけではない!)

りあえず、もげた取っ手を持って事務所へ謝りに行く。

は無かった鉄道シミュレーターが何台も設置されている。

がチャレンジした。最初の駅を出発して次の駅への途中で突然画面が止まり「次の人と交替して下さい」とアナウンスが。

信号を見落としたのかもしれないが、列車を止めるのが運転の醍醐味。子どもにはちょっとむごい終わり方だった。

後にレンが造りの東京駅の建物を見て、駅で土産物を買い込んで帰りの新幹線に乗った。

遣いの少ない甥を配慮して、少しでも旅費の節約のために「ひかり」を利用したが、今回の経費は一人4万円ほどかかった。



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