日記帳
■2003年 1月分■ |
1月2日(木) |
今日は完全休養日。来客も無く、ゆっくりできた。(明日から、檀家詣りが始まる。) 数日前からデスクトップパソコン(OSはWin98SE)で、それまで使用できていたフォントの大半がフォントのリストから消滅し、選択できなくなっていたのだが、その原因と解決法が分からず、気味が悪かった。 「フォントトラブル」で検索をしたところ、多くのページがヒットした。最初にあった「Windows FAQ」によれば、「フォントトラブルの多くはフォントキャッシュファイル (ttfCache) の破損で発生」するとのこと。 その「ttfCache ファイル」を削除することで解決されるというので実行したところ、元通りフォントが使用できるようになった。 Win98/Meを使用されていて同様のトラブルでお困りの方は、一度お試しあれ。 (参考:http://homepage2.nifty.com/winfaq/fontstrouble.html) |
1月4日(土) |
新年からいろんなニュースが新聞紙上を賑わせている まずは、NHKの「ゆく年 くる年」の中継を請け負った取材会社が、照明ライトを国宝の鐘楼に釘を打ち付けて設置したことから。 脚のついた投光器を用いるか、仮設の足場を組んで設置すれば良いものを。例年は一体どうしていたのだろう? 荷物を減らすために、脚を置いてきたのか?でも、釘と金槌はどこで手配したのだろう? もしも用意周到に道具を持参していたのなら、最初から打ち付けてしまえ!と考えていたことになる。 日経新聞には、「謝罪して、ご理解いただけたと思う」というNHKのコメントが出ていたが、「釘を打って取り付けても平気」な感性をどう説明し理解させたのか。NHKには敏腕のネゴシエーターがいるらしい。 当寺でも、似たような経験がある。 お葬式に本堂を貸すことがあるのだが、地元の馴染み以外の葬儀社が作業をした場合に、思わぬ場所に釘を打たれることが度々ある。 ある時、本堂の内陣と外陣を仕切る扉を取り外したまま、直さないで帰っていった業者があった。 馴染みの業者になら安心して任せられるのだが、初めての業者だと不安で仕方がない。くれぐれも無神経な仕事だけはしないでいただきたい。 もう一つ、伊丹市役所では、年が明けて、真夜中に婚姻届けを提出しに来たカップルと宿直の警備員らが口論となり、提出できずに帰ったカップルもあった、という記事が。 勤務中の飲酒は御法度なのは重々承知してるはずだが…。大晦日〜新年の雰囲気に負けたか。 |
1月9日(木) |
Internet Exploreが不調なので、「Opera」というプラウザをインストールした。 調子はIEより良く、ボタン類の名称もIEに準じているので、ネットスケープよりも使い易い。 一方、当HPの表紙のBGMが鳴らないのと法語が表示されない、という不具合もある。(当サイトのBGMが鳴らないのは、通常のサイトが使用しているMIDI形式ではなく、MP3ファイルにしているのが原因と思われる。) ただ、IEを起動すると画面が灰色一色になりフリーズするというトラブルが度々あり、スキャンディスクをかけても治らなくなってきたので、このままオペラを使用しないと致し方ないか。 |
1月16日(木) …「首が痛い」 |
昨日の朝、2軒目のおまいりが済んだ頃、首の後ろ側が痛いことに気付いた。 正面を見ていれば気付かないが、左右に顔を向けるとちょっと痛む。 寝違えなら一晩眠れば治るものだが、痛みは今日も続いている。 いわゆる「むち打ち症」なのだろうか(むち打ち症と診断された経験は無いが)。 原因として思い当たるのは「目覚まし時計」。 最近、目覚ましのアラーム音を止めた後でまた眠ってしまうことが続いたので、布団から完全に出て数歩行かないと届かない場所に時計を移した。 遠くなった分、音を止めるのに時間がかかる → 長い時間ベルが鳴る → うるさいし、電池が消耗する → 早く止めなければ → ベルが鳴ると同時にガバッと起きあがる → 首を痛めた 「風が吹くと桶屋が儲かる」みたいな理屈だが、何ともくだらない理由で痛めたものだ。 また、前日あった懇親会で、パソコンのフォントが使えなくなるというトラブルで困っている人があった。(その人のメールアドレスが分からなかったので)解決法(1月2日の日記を参照)をFAXした。 |
1月21日(火) …「モアイ像に名前を彫る」/「希少種のクワガタ約900匹を違法採取」 |
日本人が外国で引き起こした事件が相次いで報道された。 その@:イースター島で日本人男性観光客(28)がモアイ像に自分と友人の名前を彫り込み、地元住民に現場を取り押さえられた。 裁判官の尋問を受けた後、釈放され日本に帰国。 傷は修復不能。 地元の市長は文化財や伝統文化に対する観光客の配慮のなさを嘆く。 現場は断崖絶壁の離島。 (※共同通信配信、1月18日付の日経新聞夕刊、同19日付の朝日新聞朝刊を元に再構成) 「自分と友人の名前を彫り込み」…一昔まえなら「相合い傘」を思い起こすところだが、今回はどうだったのか? この男がイースター島へ仲間と共に行ったのか一人旅だったのか、新聞の記事からでは判らない。 一人旅で相合い傘を書いたのだとしたら「28歳にもなって、しょーもないことすんな!ドアホ!!」だし、ツアーだったら、自分の名前を先に彫り、「ついでにお前の名前も彫ったるわ」なんて言いながらガリガリとやっていたのだろう。友人も見てないで止めさせろよ! そのA:12月29日、日本人2人(高校教諭(48)とペットショップ経営者(33))が、世界遺産に登録されているオーストラリアの離島にしか生息しない希少なクワガタムシ922匹など、計1057匹を隠して持ち出そうとしたが、シドニー国際空港の税関で発覚。 2人は釈放されたものの、裁判のためシドニー市内に足止めされている。 生きていたクワガタ607匹は島に戻されたが、「一度にこれ程大量の希少昆虫を違法採取した事件は前例がない」と関係者はカンカン。 豪州の環境生物保護違反の最高刑は禁固10年、罰金11万豪ドル(約770万円)。 (※1月21日付の朝日新聞夕刊を元に再構成) ククワガタ922匹を違法採取−607匹を島に戻す=315匹が死んだことになるのだが、実に34%も死なせているのである。 前から、希少な昆虫や高山植物を持ち帰ることが問題になっている。 希少なもの程、それを「我がものにしたい」という欲求をかき立てるのものであり、その心を抑えきれない人は沢山いることでしょう。 (僧侶A):「『その生き物たちが、その命を育んだ大地、自然の中で生きているんだ』ということを夢想するだけ十分に幸せな気持ちになれるはずなのですが、そっとしておけませんか?どうしても捕まえたいのですか?」 (マニアからの反論その1):「じゃあ、絶滅の恐れのない生き物はどうなんだ?捕まえて良いのか、ダメなのか?」 (マニアからの反論その2):「蚊やハエ、ゴキブリもお前はそっとしておけるのか?」 (僧侶A):「………」 でも、この事件はきっと一攫千金を狙ったものであって、生活苦で起こしたのじゃないでしょう。 日本男児の心意気はどこへ? |
1月22日(水) …「病院へ」 |
昨日、今日と続けて近所の病院で診察を受けた。 16日からの首痛も治っていないのだが、本当の受診理由は@去年の夏頃からずっと踵(かかと)の痛みが続いていていつまでの消えないこと A2ヶ月前くらいから走り出すとすぐに胸の辺りが締めつけられたように苦しくなること の2点であった。 昨日は、最初に循環器科を受診。心臓のレントゲン撮影と心電図検査を受けた。検査結果は「異常なし」。翌日、運動負荷心電図をとることに。 続けて整形外科を受診。首と踵のレントゲン撮影。 そこで、衝撃の事実が判明! 首の骨(頸椎)のそり具合に異常があること、そして、踵の痛みは土踏まずのアーチが弱い=つまり扁平足である=ことを指摘された。 なんてことだ。我が足が「ドラえもん」と同じであったとは…。(最初にTVアニメ化されたドラえもんのオープニング主題歌を覚えていますか?) とりあえず、首と踵の痛み止めの薬を処方してもらい、病院を後にする。 薬局で処方箋を提出し、腰掛けて待っていると、私より若い女性店員(薬剤師?)が寄ってきて「僧侶Aさん、お久しぶりですね…」と話しかけてきた。 (え??見覚えの無い顔だけど、どこの知り合いだったかな? しかも彼女の表情が暗い…)と思っていたら、 「お久しぶりですね…。保険証を見せて下さい。」だって。ガックリ。 そして今日は、朝9時すぎから走らない自転車のペダルをこぎながらの心電図測定に臨んだ。 日頃の運動不足がもろにでて、開始早々から足がつらかった。 3分毎に負荷が強くなるように設定されていて、ノルマの10分を過ぎ、「限界が来たらいつ止めてもいい」と言われるのだが、「若さ」を証明したい一心で「もう止めたい」という気持ちと懸命に戦った。 13分を過ぎて負荷が5段目に入ったところで毎分50回転のペースを守れなくなり、ギブアップ。 本当の地獄はそれからで、装置の椅子に座ったままの状態で、運動停止後9分間心電図をとり続けるのであった。 心臓は激しく鼓動しているが呼吸は比較的ゆっくりしている。たちまち脳が酸欠状態になり、気分が悪くなった。しかし、心電図をとっているので、腕を動かすことも、横になることも禁じられている。 全力を出し切って1500bを走り終えた直後と同じ「酸欠地獄」。二度と受けたくない検査であった。 |
1月27日(月) …「カンボジアへ出発」 |
お経の先生からの誘いで、戦争犠牲者法要を勤めアンコールワット遺跡を見学する旅に参加することになった。 午前9時15分に関西空港集合……直近まで法事の準備やお通夜など仕事に追われていて、一週間も寺を空けるのでその間のお参りの段取りの予定表作成が出来たのが出発前夜の深夜。大慌てで借りてきたトランクに詰め込んで荷造りが出来たのが今朝の2時過ぎ。 寝過ごして集合に遅れないかと心配だったが、集合時刻の5分前に到着。 今回のツアーは全てベトナム航空機を利用。ベトナムのホーチミン空港でカンボジアのシェムリアップ空港行きに乗り継ぐ。 べトナムからカンボジア行きの便は、JR在来線特急と同じ2+2の1列4人掛け、客室乗務員は僅かに2名(男女各1名)という小さな双発ターボプロップ機でした。 私の席の真上の戸棚が、機内サービス用おしぼりの収納庫になっていたので、頻繁にアオザイに身を包んだスチュワーデスさんが覆い被さってくる特等席(?)でした。 スチュワーデスさんが戸棚から物を取り出す際に、先に自分のポーチを棚から出して片手に持ちながら不自由そうに作業をしていた(ほぼ満席だったので、荷物を空席に置けなかった)ので、そのポーチを持ってあげたら喜んでくれた。 また、彼女がおしぼりを取り出そうとしていて1つ棚から落としてしまった。私が下で受け止め、返そうとしたら「そのまま使って」とジェスチャーで言って微笑んでくれた。ささやかな幸せ。 本日の宿泊地・シェムリアップに着いたのは陽が落ちて夜に変わる頃であった。(しかも、時差があって、日本より2時間遅れているので、関空に集合してから11時間を費やしたことになる。) 真冬の日本から熱帯へ来たので、さすがに機外へ出た瞬間は南国特有の暑さを感じたが、耐えられないほどでもなく一安心。 バスで空港からホテルへ向かった。国道にも街灯がほとんどない暗闇なのに人通りが多く、狭い道を車やバイク、人が行き交っている。家にも灯りがほとんどない暗い町だが、そこかしこに屋台が出ていて賑やかでもあった。 道路は舗装されてはいるが日本ほど丁寧に地ならしがされていない。スピードを少し上げただけでバスは激しく揺れ始める。ここではフェラーリを走らせられないだろう。 ホテルにチェックインした後、明日法要を勤める会場の下見に同行。 ポルポト派によって命を奪われた人々の慰霊塔がその場所だが、塔の窓越しに何か浮かんで見える……中に納められた遺骨が裸電球で照らし出されていた。まるでこちらを見つめているようだ。 夕食はホテルの庭でバイキング。舞台の「アプサラダンス」という宮廷舞踊のショーを鑑賞しながらの食事。踊り子の衣装はアンコール・ワットのレリーフに掘られている「天女」の姿であった。 |
1月28日(火) …「平和法要と遺跡巡り」 |
朝食後、法要の為に僧侶の装束に着替えようとして、とんでもない失敗に気付く。父親が普段着ている白服(衣の下に着る白衣)を持って来てしまった…。 父は私より10p以上も背が低い----丈が短いのは伸ばしようがないので、上に着る衣をたくし上げてバランスを取った。世間一般の人はだませても、僧侶が見ればその異様さは明らか。みんなから「変やで」と突っ込まれる。 バスで法要会場のワット・トメイ寺院へ向かう。日本からの法要団は12名。それに現地の僧侶10名、寺の境内にある小学校の生徒40名や信者などが参列して、ポル・ポト政権時代に命を奪われた人々の遺骨を納めた「キリング・フィールド・メモリアル(犠牲者慰霊塔)」の前で「戦争犠牲者法要」を勤めた。 勤行後はカンボジアの僧侶、小学生達と一緒に記念撮影。そして子ども達一人ひとりに文具をプレゼント。 その後で境内を見学。日本語を勉強している僧侶がいたので、たくさん話ができた。水洗便所建設の援助を求められ、お経の会から寄附をした。 一旦ホテルへ戻り普段着に着替えてから、アンコール・ワットへ移動。 午前中は、正面入り口から見るアンコール・ワットは逆光になるので、良い写真は期待できない。 ちょうど結婚式の一団が参拝に来ていた。我々のガイドさんが「花嫁と写真を撮っても良い」と言うのでついていったら、花嫁とのツーショット写真を撮られる羽目に。みんなからは「新郎が怖い目で睨んでいたぞ」と冷やかされたが、私は「花嫁さん一人だけ」のポートレート写真を撮りたかったのだ…。 遺跡の内部、長い回廊の壁一面に物語、神話を題材にした細かな彫刻が施されている。 中心部(第3回廊)の塔の頂上まで登りつめた、余りにも階段のステップが狭く危険な場所であった。一段足を滑らせたりバランスを崩したら下まで落ちてしまうだろう。 バスへ戻る道中、「土産物売り」に付きまとわれた。「お兄さん、安いよ、5ドル」と日本語で売りに来る。初めての買い物だったので、値切れることを知らなかった。随分高い値で買ってしまった。(日本円に直せば600円くらいで元々安いものなのだが、半値以下に値切った人の話が耳にはいると、「高い買い物だった!」と思えてしまうのです。) ホテルで昼食と休息をとる。カンボジアは太陽光線がきつく熱いので、お昼の2時間はみんな休憩するのが習慣だそうだ。 昼からはアンコール・トムへ。アンコールは「宮殿」、トムは「大きな」という意味で、ここは巨大な城塞都市である。 石で作られた南大門の前でバスを降り、徒歩で門をくぐって中へ入り再びバスに乗る。(車1台が通るのがやっとの幅しかない。) アンコール・トム内のバイヨン寺院の塔にはそれぞれ東西南北四面に菩薩の顔が彫られていて、その顔は「クメールの微笑み」と称される。 続いてタプロム寺院を見学。 遺跡の屋根の上に落ちたガジュマロの種が育ち、屋根から地面に伸びた巨木の根に建物が絡め取られている姿は異様。しかも、木の重みと成長によって遺跡が破壊され続けていくのを止められない(木を取り除いても、遺跡は崩れてしまう)状況になっている。 公務員である警察官の方から観光客に声を掛け、バッヂや手帳を売りつけに来る。正規の給料だけではとても生活していけないので、仕方ないことだそうだ。 夕刻、アンコール遺跡観光の締めくくりに、遺跡の塔の上から沈む夕陽を消えるまで眺めた。 |
1月29日(水) …「湖クルーズ、そしてベトナムへ」 |
朝食後、トンレサップ湖へ向かう。川沿いの道に並ぶ民家は、質素な高床式の家が多い。 バイクが交通の主役である。砂埃が立つのでバンダナなどでマスクをしてバイクを走らせているが、ゴーグルを掛けている人は少ない。 入り江と言うより水路のような水位の浅い船着き場で小さな木造船に乗船。 この湖は乾期で琵琶湖の3倍の広さだが、雨期になるとメコン川の水が増し、シェムリアップ川を逆流して湖にたまり、琵琶湖の10倍程の面積になる。(ガイド談) 人々は船の上に住居を構えていて、水位の変化に合わせて移動をする。 乾期となって水位が下がったので、沖に向けての引っ越しが始まっていた。 昼食後、空港へ向かい、ホーチミン経由でベトナムの首都・ハノイへ移動。 ハノイに着いたときはもう夜になっていた。南北に長いベトナムの北部に位置するハノイの第一印象は、涼しくてとても快適。 道路の舗装状態は良好。市内にはバス・タクシーも走っているが、ここも交通の主役はバイクである。 |
1月30日(木) …「ベトナムの首都・ハノイ」 |
朝食後、ホーチミン廟へ向かう。 ソ連の技術によって保存の処置がなされ、ガラスケース内に安置されているベトナムの英雄・ホーチミン元主席の遺体を見ることができる。 入り口でセキュリティーチャックをされる上、廟内には幾人もの警備隊員(軍人?)が直立不動で立っていて、ここでは見学者は無言になる。 当然遺体の撮影は禁止だが、命と引き替えに撮影する勇気のある者はいないだろう。 廟の外で、絵はがき売りの若者に捕まった。少々品物が傷んでいた。もう少し値切ればよかった? 続けてハノイ郊外・バスで15分くらいの距離にあるバッチャン村へ向かう。 その村は陶器の工房が建ち並んでいて(ガイドブックによれば、その数200軒)、陶器を積んだ自転車を「押して」通る人が多い。 私は陶器には疎く興味が無いので、皆が買い物をしている間も通りをぶらぶらとしていた。 20歳くらいの若者が「ハンモック、5ドル」としつこくまとわりついて来たが相手にしなかった。 ところがその若者は、ハノイ市内へ戻る我々のバスを、バイクで追い掛けてくるではないか! 先輩が彼から買おうとしたところでバスが出発することになったので「あとで」と彼に言ったらしい。 その「約束」を果たしてもらうために、彼は我々のバスの前へ出たり真横に並んだり、走りながらサングラスを外して我々に微笑みかけたりしながら、ハノイ市内までついてきてしまった。 玉山祠前でバスを降りたところで待ちかまえていた若者から先輩がハンモックを2ドルで買った。 彼のそのガッツに感心したので、私もハンモックを求め2ドルを渡した。 ところが彼は「3ドル、3ドル」と言う。よく見たら、ハンモックと木彫りのカエルの置物をセットで渡そうとしている。ハンモックだけを受け取り、カエルは断った。 玉山祠の前の池には500歳の亀が住むと言われ、祠にも最近死んだという大亀の剥製が展示されている。 続けて旧市街地の市場を見学。通路が狭く、多数の買い物客でごった返しているのだが、そこをバイクまでもが通ろうとするので大変。 昼食の為、近くのベトナム料理の店までバスで移動したが、「ハンモック少年」はまだついてくる。しかし、食事を終えて店を出たときにはもう姿がなかった。 午後は文廟と一柱寺を見学。 孔子を祀る文廟は、ベトナム最初の大学でもあった。年代別に科挙の成績優秀者の名前を彫った石碑がいくつも残っている。すべて漢字で彫られていて、ベトナムが中国と文化的にも深い関係があったことを伝えている。 一柱寺は、池の中に立つ一本の柱の上に立てられた小さなお寺で、本尊は観音菩薩だそうだ。 土産物店に立ち寄った。そこで出された緑茶がおいしかったので買い求めた。店員は100グラム8ドルのジャスミンティーをしきりに勧めるが、耳を貸さず2ドルの緑茶を300グラム5ドルで買った。 ついでに米で作った干菓子も買ったが、ちょっと日本人の口には合わない味であった。 夜食はホテル日航・ハノイで日本料理を。個人的には、2度と来れないかもしれないのだから、期間中ずっと現地の料理でいいと思っていたのだが…。(そう思える程に、カンボジアやベトナムの料理は日本人の舌に合う味であった。) 夜8時からは玉山祠の向かいにある水上人形劇場で観劇。 プールの水面を舞台に見立てて、袖で奏でられる楽器と唄に合わせて水上を人形が動き回る人形劇である。 人形遣いは、半身水の中で操作をしているのだろう。水中に隠れているが、長い棒で器用に人形を操っている。 入館時に扇子を渡された。不思議に思っていたが、実は館内に冷房が無く、公演の終盤には蒸し暑さによる睡魔との戦いでもあった。 言葉が理解できないのでその面白さは理解できなかった。 むしろ、伝統的な楽器による演奏と唄に興味を引かれた。劇場から、鑑賞の記念品として演奏を録音したカセットテープをもらった。帰国後何度と無く繰り返し聞いているが、少しも飽きない「アジアの音楽」であった。 |
1月31日(金) …「ホーチミン市へ」 |
朝食後、ハノイからベトナム南部の大都市ホーチミン市へ移動するために空港へ向かう。 今日は旧暦の12月31日。新年のお飾りに実を付けた金柑が空港の待合室にも置かれている。こっそりその実をとって食べるいたずら者が…。 待合室の土産物売り場で、日本語ぺらぺらのベトナム人の若者と出会った。正月なので日本から戻ってきたところだと言う。 ベトナムでは「若い米」=まだ実り切っていないお米をお菓子代わりに生で食べる、と言う。「その米で作ったお餅はおいしいよ」と勧めるので買って食したが、香味がきつく、日本人向きではない。ベトナムの料理はいいが、お菓子類は口に合わなかった。 ホーチミン空港に到着。冷房のかかった空港ビルから出た途端、南方特有のムッとする暑さにジャングルの気候を実感。 「クチのトンネル」を尋ねる。ここはベトコン(ベトナム解放戦線)の地下壕であり、ベトナム戦争の戦場でもある。 べトナム人ガイドが、戦争について次のように語ってくれた。 べトナムは1600年代からフランスの植民地であった。第二次大戦後、100年もここを支配していた仏が完全撤退するのに時間が必要であるという理由で北緯17°線で南北に分けた。そこに米ソが介入し、やがてベトナム戦争が起こる。 南側は自由主義ではあったが民衆を抑圧していたので不満が高まり、ベトナム解放戦線の政府(ベトコン)が生まれ、勝利した。 たまたまこの旅行中に大晦日が当たった。 年明けとともに花火を打ち上げるのだが、宿泊したホテルの前の通りが絶好の見物場所であるらしく、人々がバイクで集まってきて、11時を過ぎるころには群衆で埋め尽くされ、1台、取り囲まれたパトカーが動けない状態になっていた。 午前0時を迎え、旧正月(テト)を祝す打ち上げ花火が始まった。 しばらくはホテルの部屋から眺めていたが、あいにく場所が悪くよく見えないので、仲間と外へ出て人混みの間から見ることにした。 ざっと20分ほど続いただろうか、最後の大玉が空中に開くと一斉に拍手が沸き起こり、引き潮のように大群衆が引き上げ始めた。 4人でホテルの周囲を深夜の散策に出た。念のため、パスポートはホテルの金庫へ入れ、腕時計も外した。 大きなとある商店で人垣が出来ている。近づくと、武芸団が獅子舞やカンフーの実演を披露していた。 小学生相当の少年・少女たちが演技するカンフーは、まさにジャッキー・チェン(またはドラゴン・ボール)の世界。 1つの演技が終わる度に、店から演者に祝儀が渡される。 小一時間程続いただろうか。締めくくりは、高い棒に登っての龍の舞。日本で例えれば出初め式で見せる梯子上での演技に近い。眠さをこらえつつも、正真正銘の「アジアの正月」を堪能。 ガイドは「ホーチミンは夜も治安が良い」と言っていたが、子どもが「兄さん、チップ」といってまとわりつき、終いには腕をつねられた。夜間の単独行動は慎んだ方が良さそうな雰囲気であった。 帰国後にガイドブックを読んだが、「夜は危険」と書いてあった。 |
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