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本山(真宗本廟=東本願寺)からいただくご本尊・阿弥陀如来の絵像(えぞう)の裏には「方便法身尊形(ほうべんほっしんのそんぎょう)」と書かれています。 この言葉の意味は、「この阿弥陀如来像は、形相(ぎょうそう)〔すがた・かたち〕を超越した法性法身(ほっしょうほっしん)から衆生のためにあらわれた方便法身を形にあらわしたものである」ということです。 法性法身(阿弥陀如来の本当のすがた)は、「いろもなし、かたちもましまさず」(聖典554)と言われるように私たちには見えません。目に見えない清浄・真実のすがたを、仏教では涅槃(ねはん)、一如(いちにょ)、あるいは真如(しんにょ)などと呼びます。 それは、煩悩に汚れた人間の相対的な価値観では思いも及ばず、言葉でも言い尽くせない、遙かな世界です。そこから衆生のためにあらわれるのが「方便法身の阿弥陀如来」なのです。 曇鸞大師(どんらんだいし)は「法性法身に由(よ)って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出だす。この二つの法身は、異にして分かつべからず。一にして同じかるべからず。」(『教行信証』聖典290)と教えておられます。 また、親鸞聖人は「この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)となのりたまいて、無碍(むげ)のちかいをおこしたまうをたねとして、阿弥陀仏と、なりたまう(中略)この如来を方便法身とはもうすなり。」(『一念多念文意』聖典543)と記されています。 法性法身からあらわれる方便法身を形にしたご本尊の姿に導かれ、私たちは仏の御名(みな)を聞き念仏を称えながら、まことの願いとはたらきを憶念(おくねん)するのです。絵像や木像にあらわされた阿弥陀如来の姿は、偶像(ぐうぞう)ではなく、単なる仮の姿でもないのです。だから「方便法身尊形」という言葉が書かれているのです。 |
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