※『1994(平成6)年度 真宗学会例会活動報告』(発行/大谷大学真宗学会例会運営委員会)に掲載された拙稿を加筆・修正したものです。
我が信念
(池田英二郎)
 思うに、宗教は信仰者にもたらされる救済(あるいはご利益)を抜きにして語られることはないのである。

 一般には宗教(の利益)とは人をいわゆる「幸福」にし、悪運を取り祓い幸せに導き、先祖や世界が救われると説かれるのであるが、真に求めるべきなのは物質的な利益や状況の好転への期待といった形の救済ではなく、自己の「立脚地」の発見なのであると私は考える。





 現実の苦悩の中から求められる「救済」への願いは確かに切実であって、他人から「現実逃避だ」などと一言で片づけられるものではないかも知れない。

 しかしながら、その願いはどうしても人間である限り、「人間的な」願いでしかなく、現実を人間の力(あるいは信仰の力、人間を超えた働き)によって好転させることが「出来る」という望みを背景として持たれるものである。

 たとえば現実が思い通りにならない事を思い知っても、今度は「あの世」という観念を持ちだして「来世」に希望をつなぐことになっていく。

 いずれにせよそのような救済は、「いつかは分からないが、きっといつか実現するだろう」的な不確実なものであり、言ってみれば「夢」である。そんな夢を追えば追うほど現実から目をそらし、夢の方こそ本当の「あるべき現実」であって今の現実の方が間違っていると捉えるようになって行くのではないか。





 そもそも「救済」とは何か。救済の無い宗教を信じる者はいないであろうが、その救済ははたして実現されるのであろうか…

 …われわれが思い浮かべる「救済」自体が実は非常に怪しいものなのである。人間が考えつく「救済」は決して本当の到達点にはなり得ないのではないか。



 救済を求めるという事は、苦悩の現実の中にある今のこの自分や世界とは別の、「あるべき」「あって欲しい」自分と世界を考えている事である。

そのような思い自体は悪くない。思うことを止めよと言うのではない。

 この世を厭うて「清浄なる世界」を求めんとするのであるが、「ある方法で必ずそれを実現できる」と考える事が道を見失わせ、逆に救済の道を外れて行くのではないか。





 私にとって救済とは何かと言うと、眼前のいまある現実、縁起する世界であるここを生きるのみである。

 ----この世界を「生きる」決定をしてここに立つ人の足が踏みしめていたのは、実は気付かないままでこれまでもずっと生きてきた「諸行無常 諸法無我」の自然の大地があり、その上に人は立っていたことにその時気付くのである。

 この世に生まれ「落ち」たその時からそれより落ちようのない「大地」の上に生まれ落ちていた自分の存在に気が付いた。

 この「大地」は実は自分が作ったのではなく元もと既にあったのである。

 同様に、我々はずっと太陽に照らされ続けていたのである。

 我々は今の地球があり人類が生きていけるのは太陽のお陰だということを「知って」いる。しかし地球は太陽の光(働き)から恩恵だけを受けているのではない。気候の不順や天災をもたらす事もある。それによって人の命が奪われることさえあるのだが、「利益・不利益」と思うのは「人間的な」見地で人は物事を認識し考えるからである。

 「不順」も「災い」も自然にとってはその姿の一面である。人間がある「尺度」を以て見るから「予想外」----本来はある筈のない事が起こったと騒ぐのであるが、それでも太陽はひたすら照らし続ける。



 大悲のはたらきは、言い換えればあたかも大地が受け止め太陽が黙って照らし続けるような、さらには時間がひたすら流れ続ける自然のこの世の成り立ちそのものである。

 大地の「受け止め続けるはたらき」も太陽の「照らし続けるはたらき」も止まることのない時間の「流れ」も人間が望んでそのようなものにしたのではなく、「黙って」「ひたすら」というような人間による解釈の及ばないような在り方で人間に及ぶものである。(そのようなものに対してさえ人間は人間の考えの範疇で「なぜ」と解釈しようとするのだが。)





 人が人として生きるのは五感で感じることのできる現実のこの世だけであり、流れる時の中のいつでも今・この瞬間を生きる他はないのである。それ以外に一体どこを生きるといえるのか。

 すべてのものが関係しあって影響しながら移り行く(ような関係にあるが如くに見える)この世の在り方、その在り方に等しく流れているのは他力の原理である。


 真宗において「自力」とは、「自分で努力して何かを達成する」ということを指しているのではない。
「自力」については、親鸞聖人が「わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり」〔『一念多念文意』(聖典541)〕と述べられている通り、「我が身・心・力・善根を頼む人」のことである。

 自力(自分が期待する結果や見返りを求めてやまない在り方)は、それをいかに尽くしたところで、「ただ」「ひたすら」なる「はたらき」には何らの影響を及ぼしはしないのである。

※「他力まかせ」という意味で「他力本願」という語が使われることがあるが、それは「一切をまかせ切っている」のではなく、「良い結果を待ち望んでいる状態」の表現であるので、「他力」の本質とはかけ離れた用例なのである。


 人間の思いの中を生きる在り方、自然を人間が支配・操作出来るという思いの中を生きる在り方ではなく、人もまたこの宇宙・自然の中に生まれてそして死んでいく移り変わりの一つであり、決して自分だけがその「事実」を離れて生きることは出来ない、そのようなこの世の在り方は、「他力」と了解せざるを得ないし、それ以外にないのであるから「絶対」なのである。


 「いま・ここ」以外の自分で期待する「こうあってほしい」世界を求めることに破れるのは、「ただ」支え照らし続けるはたらきの中を生きていたことに気付くからであり、時が「ひたすら」過ぎ行くことを知ったからである。


 ただ支え照らし続ける----これは人間の行う「自力」は及ばない。かといって「無」力でもない。「大地」に立っているという目覚めにおいては「無」とは言えない。

 『論註』で「願生」について「無生の生」と言われるのに倣っていえば「無力の力」というべきか。



 「いま・ここ」から逃れたくて、きっとどこかに「救い」があるだろうと思って求め続けていた「救い」は、どこを探したってありはしない。外へ尋ね廻ってさまよい求めても、求めているものそのものが怪しいものである、と思い至り、外だけを見るのを止めて内に眼を向けた時、実はこの世に「ある」と言えるのは五感でもってこの世を見、「いま・ここ」を生きる他はない私でしかない。





 この世----「いま・ここ」を生きる他に道はないと夢に破れ、しかしその自分を立たしめる「大地」、照らし続ける「太陽」に気付くと、もう「清浄なる世界」をどこかに求めることのないこの世を真に生きる者となる。

 この世の荒波にもまれる現実は変わらないが、その現実にあきらめてただ流されるだけの人生でもなく、自覚して「これしかない」という決断・決定の下、荒波の中を主体的に生きることの出来る自立者となる。

 だから「大地」や「太陽」に気付いても、何も特別な人間になるのではない。状況がそれによって「好転」していくのではない。

 ただ一点、この大地に立っているという自覚、そして太陽に照らされているという自覚が「この私をして、虚心平気にこの世界に生死することを得しむる」のである。





 この身の上にはどんな思いもよらない事さえも降りかかってくる、と覚悟を決めて考える他はない。

 人間の五感で知覚するこの世の出来事を現実・事実として受け取る以外にないように出来ているのだが、誰もが等しくこの「諸行無常 諸法無我」の世界・この世を生きるしかないし、意識・自覚していようといまいと関係なく現に生きているのである。「大地」に立って気付くのだが、実は誰もがこの「大地」の上に生まれ照らされているのである。

 いわば本来的に「大地」の上を生きているのにそのことに気付かないのが「無明」であり、迷いの生なのである。まさに「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩まなこをさえて、みたてまつるにあたわずといえども、大悲ものうきことなくして、つねにわがみをてらしたまう」(『一念多念文意』)のである。

 「阿弥陀」という言葉を用いるなら、この大地の根本が阿弥陀であり、実は「諸行無常 諸法無我」なるこの世の、そのような在り方そのものの根本本体を阿弥陀と名付けたのだと私は信じるのである。


 ※謹んで真仏土を案ずれば、仏はすなわちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。しかればすなわち大悲の誓願に酬報するがゆえに、真の報仏土と曰(い)うなり。すでにして願(がん)います、すなわち光明・寿命の願これなり。
〔『教行信証』「真仏土巻」(真宗聖典300ページ)〕





 人間の思いとは無関係に移ろい流れ続ける時間、変わり行く世界で「大地」に立つ自分に気付いたからこそ、「〜でなければならない」といった型にはめられた或いははめようとする「人間の思い」に縛られた生き方が破られて、その点では完全に「自由」になる。

 まさに清澤満之師が言うように「私は善悪邪正に何たるを弁ずるの必要はない。何事でも、私はただ自分の気の向うところ、心の欲するところに従順(したご)うてこれを行うて差し支えはない。その行いが過失であろうと、罪悪であろうと、少しも懸念することはいらない。如来は私の一切の行為について、責任を負うて下さる」(『我が信念』)のだが、それがそのまま単純に自身の絶対肯定へとはならない。

 この「大地」に立つ者の行為がいつも正しくすべてが善であるのではない。

 むしろ何一つ真実なもの(清浄な心)はなく虚仮にして不実でしかないという他ない自身への目覚めがこの大地に立つ者は開かれるのである。


 「内に虚仮を懐いて、貧瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵(や)めがたし、事、蛇蝎に同じ、三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。」
(『教行信証』「信巻」)





 大地の発見は、大いなる歓喜----人間として生まれ生きる事への絶対的な肯定を与えるとともにその「人間の在り方」の本質的な虚仮不実性の覚知をその者へ突き付け、それへの懺悔・批判を迫る。


 その批判は、自分も人間であることからは離れられないのであるから、自分自身をも対象とする、正に「悲歎」なのである。

 だがその悲歎は自分の(私が持つ)悲歎というより、大地が私を立たしめる根底にある悲歎なのである。

 それは正に阿弥陀如来の悲歎であり、「大悲内存在」なる自己への信知を得たものにおいてのみ、「如来は私の一切の行為について、責任を負うて下さる」と言い切れるのである。


 一切のこの身の上に起こってくる出来事を引き受けて生きる人となる。それは精神的に強くなって、肩肘張って引き受けるのでなく、出来事の中を大地に立って(大地の方から私を支え立たせてくれていた)生き、そして死んで行くだけのことなのである----真に煩悩具足の凡夫として。


 私が「往生」の教説から得たのは、このような生を自分が生きている、という「事実」であった。




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