※『宗恩寺だより』第2号〔2003(平成15)年 8月〕より


受け止められているという
安心があればこそ


 アメリカ合衆国の初代大統領、ジョージ・ワシントンがまだ子どもの時、父が大切に育てていた桜の木を切ったが、正直に謝り許された、という逸話を覚えておられますか?

 ジョージ・ワシントン少年は、父親から新しい斧を買ってもらったのがうれしくて、斧の切れ味を庭の桜の木で試しました。

 でも、その桜の木はお父さんが大切に育てていた木だったのです。
 「桜の木を切ったのは誰だ!」というお父さんの声に、「僕がしました。ごめんなさい。」とジョージは正直に名乗り出ました。

 お父さんは「私はうれしい。お前の正直な答えは、1000本の桜の木よりも値打ちがある」と、ジョージ・ワシントン少年を褒めたそうです。

 ワシントン少年は「どんなに叱られてもいい」と覚悟して名乗り出たのでしょう。ところが、期せずして父から褒められたのだと思います。

 また、お父さんは日頃からワシントン少年に愛情を注いでいたのでしょう。「親から見捨てられている」と感じている子どもは、悪かったと思えば思うほど怖くて「ごめんなさい」が言えないものです。あるいは「許してもらうために口先だけで謝る」という悪知恵を働かすかもしれません。

 「鬼は外、福は内」のように、私たちは幸せだけが欲しいものです。でも実際には思わぬ災難が我が身の上に降りかかってきます。

 浄土真宗の教えの特徴に「私は全知全能ではない。むしろその反対だ」ということを認めるということがあるのですが、そんな自分の弱さを認められるのは「その私を生かしている大地がある、私を照らす太陽がある、私にかけられた大いなる願いがある(ナムアミダブツ)」ということを深く理解して得た「大いなる安心」がその根底にあるからこそ、自力の修行を捨てて一切を引き受けて生きていく生き方が開かれるのです。

仏教公開講座(第2回)より/ 池田英二郎




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