※『宗恩寺だより』第1号〔2003(平成15)年 7月〕より
掲示板のことば
宝の山に入りて
手を空しくして
帰ることなかれ
−源信僧都−

 この言葉は、源信が著した『往生要集』の一節です。

 冒頭の「宝の山」とは、直接的には(浄土往生を説く)仏教を指すように思えます。

 聖徳太子は十七条憲法で「篤く三宝を敬え」(註1)と示されました。三宝とは、仏・法・僧(仏宝、法宝、僧宝)の事です。(註2)

 しかし、源信僧都はこの句の前にこう記されているのです。

 「無数の生まれ変わりが繰り返されるこの大宇宙の歴史の中でこうして人間に生まれるたことは甚だ難しく稀なことである。命について考えることの出来る人として生まれて、仏教と出遇うことも難しいのである。まして信心を得ることができるなんて本当に奇跡である。」(大意)

 次のような例えから、私たちがこの世に人として生まれることができた不思議(理解を超えている)を理解していただけますでしょうか。

 人間の身体は約六十兆個もの細胞で出来ています。細胞の種類によってその寿命は異なりますが、私たちの身体では一秒間に五十万個の細胞が死滅し、同数が再生しています。一秒間にですよ!

 人間の身体、細胞は、もっと細かく見れば元素(原子、分子)の集まりです。つまり、この大宇宙、大自然を構成している物質の集まりが私たちの身体なのです。

 ところで、お釈迦さまは「生・老・病・死」を「四苦」と示されました。生まれた限りは「老病死」を我が身に引き受けなければならないのですが、それを引き受け、超えてゆくことができないのです。「老病死」を苦と人間が感じるところに「生」全体が「苦」となるのです。

 源信僧都の「宝の山に入りて」とは、「人として生まれたこと」を指しているのでしょう。ですから、標題の言葉で「苦を超えられるのは信心の眼で老・病・死をいただく他にない。その信心を得るのは、人として生まれた今しかないのです」と教えて下さっているのです。

 私たちの一生は「本当に大切なこと」を学ばせていただける「宝の山」であることを、どうかお忘れなく。(解説 池田英二郎)



(註1)
【十七条憲法の原文】
二曰。篤敬三寳。三寳者仏法僧也。則四生之終帰。萬国之極宗。何世何人非貴是法。人鮮尤悪。能教従之。其不帰三寳。何以直枉。

【現代語訳】
二、心から三宝を敬いなさい。三宝とは仏法僧のことです。人生、生老病死の間で最後に行き着くところは。どこの国でも究極の宗教です。どの時代でも、どんな人でも仏教を尊ばないものは無い。人間に悪人は少ない。良く教えれば宗教に従う。仏教に帰依しないで。何で曲がった心を正すことが出来ようか。



(註2)
 「仏」は、お釈迦さまを始めとする「さとった人」のこと。「法」は、その仏が説いた仏になるための教えのこと。「僧」は、出家修行者の集まり(僧伽《さんぎゃ・さんが》)です。つまり僧侶(坊さん)のことではなく、仏教教団、仏法を聞く場のことです。




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