※『教化センター通信』2002(平成14)年 9月号の「現場の声」に掲載された拙稿です。
立脚地
(池田英二郎)
 僧侶として「檀家参り」を始めたのは中学生の頃でした。当初は誇らしくあったのですが、次第に「自分がなぜ僧侶をしなければならないのか、自分は僧侶にふさわしいのか」という疑問・迷いも生じてきました。

 宗門の大学に進み、4回生となりました。「卒業論文」を書かなければならないのですが、夏が過ぎ、秋が終わり、締め切り目前の12月下旬になっても、未だ一行も書けないままでした。

 書けなければ卒業が許されないので、学生にとって卒論は「人生を左右する課題」です。

 わずか50枚の論文さえ書けない不甲斐なさと苛立ちから、自分を生んだ親への逆恨みやお寺の後を継ぐことへの迷いなどの想いが出口を見つけられずに自分を追いつめ、「いっそこの世から消えてしまいたい」というような想いが去来するまでになっていました。

 底なし沼に沈んでいくような気持ちの中で、ある日、一つの視点を得たのでした。

 ----今の自分の姿は、小さな子供が床の上で仰向けになってだだをこねているのと同じではないのか。その子を、大地はしっかりと受け止めているではないか----

 底なし沼に沈んでいく、と感じていたが、実は、「この世に生まれ落ちる」と言われるように、生まれたときから大地に受け止められていたのだ----その瞬間、それまでの雲霧を破る光明を感じたのでした。

 それまで掴めずにいた本願の教説が、具体的なイメージとなって展開した瞬間でした。

 階段を上って高い場所へ登るが如く「偉くなっていこう」として上ばかり見ていたが、よくよく足下を見れば、確かな大地に支えられていたのだ。信心とは、その大地に気づくか、気づかないかの違いであって、みんな大地の上にいることには違いがない。そういえば、清澤満之師も「自己とは(中略)落在せるもの」と捉えている----

 全世界が闇から光明になったと感じた感激は数日して消えてしまいましたが、「大地に立っている。太陽に照らされている。」という事実は消せないことでした。

 吾人の世に在るや、必ず一つの完全なる立脚地なかるべからず。
(清澤満之『精神主義』)




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