日記帳


■2002年11月分■
11月3日(日)
月27日の報恩講とその準備&片づけ、続いて翌28日早朝、寒風の中で立ち番したのがこたえて、ついに29日から風邪の症状が出てきた。

1日は午前中に1件中陰のお参りに出た以外は布団の中。月が変わった1日・2日もお参りが終わったらひたすら布団の中で静養。2日続けて夕方になると熱がでて大汗をかいたが、良くなる前兆と信じてじっと待つのみ。

東曲というお勤めの稽古が2日の夜にあったが、無理して出かけて長引かせる訳にはいかない、と自重。

日は、昼は近所の会館でお葬式、夜は叔父の月命日で西宮へ。まだ鼻づまりはあるものの、西宮で勤行後にスキヤキをご馳走になりエネルギーは満タン。全快まで秒読み、というところか。

11月7日(木)
日は、隣のお寺の報恩講でした。

のお寺のご住職の勤行は低音のため、今まではその声に合わせるのに一苦労でした。

は高音は得意ですが、低音は苦手であまり続けて声が出せないのです。無理して低音を出し続けると声帯が疲労して、次第に低音と高音の両方が出にくくなってきます。

勢の私の声量が出ないと、ご住職も声は小さいので侘びしい法要になってしまいます。

前、苦肉の策で1オクターブ上で声を出したこともありました。最後まで声は続きましたが、住職の声とは異なった響きに聞こえてしまうという問題があります。

ころが今回は怪我の功名、風邪の名残で低音が良く出たので助かりました。

も、報恩講の締めくくりだけは目一杯の高い声で「如来大悲」の和讃をお勤めしたいものですね。

11月12日(火)
夜、オートバイレースのページを製作中、参考にMFJのHPを開こうとした途端にパソコンがフリーズ。

Eを終了させるつもりで必殺「Ctrl+Alt+Enter」を押したらマシン自体が再起動……保存をしていなかったため、2時間掛けてほぼ完成していたページが消滅してしまった……またやり直しだ……。

FJのばか〜。(八つ当たり)

11月15日(金)
礼の時間に3年生に同窓会の説明をする為に、久しぶりのスーツ姿で朝8時15分に中学校へ。

校生への説明そのものは今年は大学1年生の「運営委員長」が買って出てくれたので、後見として見守るだけであった。

旦途絶えていたこのセレモニーを13年前に同期の「松っちゃん」と私で復活させたのだが、その時の私は大学を卒業していた。

際に中学生の前で話しをするのは大変なのだが、私が初めて挨拶をした年齢よりも5歳も若い現・運営委員長がチャレンジしている姿を見ていて、当時のことが思い出された。

の夜、今は茨城県つくば市在住の松っちゃんに電話を掛けた。

日の説明会の事を伝えるだけだったのが、同窓会の今後についてという真剣な話になり、それから葬式のお布施に基準はあるのか?という質問に移り、月給の話や車の保険の話、HPへのアドバイス、果ては女性の誘い方教室など、延々6時間も続いただろうか。

故か彼とは長電話になってしまうのだが、今回も外が薄明るくなってきた頃に受話器を置いた。

11月16日(土)
夜の電話の後、約2時間の睡眠をとる。

軒だけ檀家まいりを済ませて、この日に蓮如上人500回御遠忌・開基(教如上人)400年記念法要出仕の為に茨木別院へ向かう。

々はこの日の法要のメンバーから漏れていたのだが、欠員が出たので2日前に声が掛かり参勤させていただくことになった。

れで難波・天満・茨木と大阪教区内3別院の御遠忌に参加するご縁をいただいた訳である。

0月の難波別院で掛役を経験した縁で、「庭儀」の際の法具役を仰せつかったのだが、夕べの長電話の為か、少し腕が重い。

儀とは、大名行列の如く、法要参加者の行列がお寺の周囲を行進して後にお堂に入場する儀式なのだが、小一時間の行進中、ご門首の持ち物である法具(私の担当は香箱)をずっと胸の前に捧げ持ち続けるのは苦行以外の何物でもない!

堂内での勤行では法具役は別の方と交替となり、こんどは声を出してお勤めする役になるのだが、念珠(数珠)さえ重く感じた。

11月17日(日)
日と明日は、以前から声明を教えていただいている先生のお寺の報恩講。

ずは午後2時から、逮夜法要が勤まる。

谷派の法要は、重い(重要な)法要ほど、後半に高い音程になっていくという特徴があるのだが、前日の御遠忌よりもはるかに高音に達し、ほぼ限界まで声を使ってのお勤めになり、心地よい疲労感を久しぶりに味わえた。

憩(会食)の後、夜には御伝鈔の拝読があり、先輩の一人が食事の席で先生から指名されて拝読することになった。

からの作法に従って、電気を消して2本のローソクの光だけを頼りに巻物を読む荘厳(そうごん)な儀式。

かも、ただ読むのではなく、明かりのローソクを運ぶ係、御伝鈔を載せた机を運ぶ係と共に練りだしを行なって拝読するのである。今の私では教えてもらえなければ何の手伝いも出来ない…。

勤者と先生の歓談は深夜まで続き、結局日付が代わる直前の11時半までお邪魔してしまった。

11月18日(月)
日に続いての報恩講、今日が最終日。

が空いていて、法要開始の1時間15分前に着いてしまった。

の参勤者が見当たらず、玄関も施錠されていたので日か時間を間違えたのかと戸惑った。

事に法要を終え、座敷でご馳走になった。

がうまそうにビールやお酒を飲む中で唯一人アルコール類に手を付けない者がいる……それが私。

イクでお寺にお邪魔しているからではなく、ただ「お酒類が嫌い」なのである。

まで付き合いで口にはしてきたものの、今だに少しも「おいしい」と思えない。

た、酔っても心地よくなく、眠いだけ。しかもその状態で寝ても何だか回転しているような感じで気持ち悪く頭痛もする。

らに仕事柄、いつ何時、「檀家さんが亡くなった」という連絡があり枕経に呼ばれるかもしれない----

前、会合で慣れないお酒を飲んで帰宅したところで枕経の連絡があり、やむを得ず酒臭い息でお経を読んだのだが、それ以来、「もう飲まない」と誓ったのである。

かし「お酒が嫌い」とう理由だけで宴席でお酒を断わっても一般には理解が得られないものである。

た、自分は飲まなくても注(つ)いで回るくらいはしなければと思っていたのだが、「返杯」があるので、いつしか注ぎにも行けなくなり、一旦座ったらそこから動かないようになっていった。

「あいつは飲まない上に注ぎにも来ない」と、周囲の人を不愉快にさせていると思う。

ねくれ者の性格は今に始まったものではないし、上手に断れない自分が悪いのだから、もう宴会に呼ばれなくなっても、所属している会からはじき出されても構わない、甘んじてその処分を受けるつもりで、先輩だろうと後輩だろうと、断ることにしている。

近は飲酒運転の罰則と取り締まりが厳しくなったらしく、平気で飲酒運転をしていた人達が一斉に控えるようになった。

日は誰からも飲酒を強要されなかったが、今回集まったようなメンバーでの会合では初めてだった。それはバイクで来たことを宣言したせいか、アルコール嫌いが理解されたからかは分からないが、有難いことであった。

Cの机に置いてある原稿用紙を見て「!」

学校のPTA新聞からの原稿依頼をされていたことを忘れていた。

め切りは23日だが、明日の夜も打ち合わせがあり、22日には京都で会議がある。残された時間は少ない。

11月20日(水)
日は、小学校5年生の時の担任の先生を囲んでの昼食会があった。

加した同級生(元・生徒)は男3名・女2名だけの、ごく内輪の「ミニクラス会」であったが、このメンバーが一堂に揃ったのも25年振りのことである。

生は現在71歳とのことだが、25年前の生徒だけでなく親のことまで覚えておられるのには驚かされた。

時の先生は、毎週のように「セブン」という題名の学級通信(新聞)を発行してくれていた。

ープロは無く、コピーも普及していない昭和52年の事なので、手書き原稿をわら半紙に輪転機で印刷して作ったまさに「手作り新聞」。

れが私の家に1号から30号まで残っていたので持って行き、みんなに見てもらった。

然のことながらとても懐かしがってもらえたが、何故残していたのかは自分でも分からない。

開きになって、今回の発起人のM君が運転する車でなんば駅へ先生をお送りした帰り道、偶然別の同級生T君と出くわす。

回の集まりの世話をしてくれたM君とも小学校を卒業して以降は付き合いがなかったが、同じ地区で生活していれば、いかに都会と雖も何度か顔を合わせることになる。

は中学校の同窓会の事務局長をして引き受けていても生来の付き合いベタで、自分から人に会いに出かけることはしないし、昔を懐かしんでクラス会をしようという気持ちも今までは湧かなかった。

かし今回参加してみて、25年の間それぞれが積み重ねてきた人生の経験は、驚くほどにその人を成長させ変えていくものだとつくづく感じ興味深かった。

君から「小学校時代の同級生約80名全員に呼びかけてクラス会をしよう」と提案を受けたが、今日の彼の努力を見ていて、協力する気持ちになった。

6歳になって、(身体的には)人生の折り返し点を過ぎたんだなぁ…と思うようになったのだが、さらに「同窓会の集まりが面白い」と感じたのも「歳」をとったせいなのだろう。

11月28日(木)
日、10時開始の日中法要で、7昼夜(8日間)に及ぶ東本願寺の今年の報恩講が終了。

の夜、例年通り宗恩寺が所属する大阪教区第2組合同の報恩講がありました。

回は阿倍野区の即應寺が会場でした。

こ2年ほどは僧侶も全員、参詣の方と同じ外陣でお勤めしていたのですが、今回は久しぶりに内陣に出仕しての法要となりました。

年になく僧侶の出席が多く、若手は余間への出仕となり、その先頭を任されました。

波別院ではいつも一番上の席を空けるように、と聞いていたので、席に着く時に一席空けるか詰めるか迷ったが、結局空ける方を選びました。

間の出仕者は4名で、畳が横に5枚敷き詰めになっていました。

間の自然な心理として、縁の上は避けて座るので、始めの畳1枚分を空けると、末席が壇際の5枚目の畳に座ることになり、法要が終わって下がる時の帰り道がふさがってしまいました。

し位は末席の人と壇上の間を通る余裕があるだろうと高をくくっていたのですが、いざ通ったときに丁度顔の高さに余間の仏花の枝が前に突き出ていてすり抜けるのに窮屈でした。

初に自分が席を空けずに座っていれば何ともなかったことなのに、こんなところで「心得がない」ことが露呈してしまうのです、トホホ。

11月29日(金)
後に四天王寺の本坊で、税務(年末調整)の説明会がありました。

0日に出合ったT君も来ていました(彼は浄土宗の僧侶です)。

務の説明の後、保健所の方から「ダイオキシン対策のため来年から法律が変わり、基準に合わない炉でのゴミの焼却は一切禁止となる」という説明がありました。

れについての質疑応答になり、「役所としては基準に合致した焼却炉の認定は行っていない」という保健所の答えから場は騒然となりました。

墓に供えてある花をゴミとして出そうとすると、環境事業局からクレームが付き、引き取ってもらえないので仕方なくお寺で焼却処分にしているのに、基準にあった公認の焼却炉が無いというのであれば、今後一体どうすれば良いのか、という声が上がり、場が紛糾。

健所の人も、最初は(法律の)基準どおりにして下さいと答えるのみだったのが、ゴミの引き取りを拒否される現場の声を初めて聞かされ、またその勢いに押されて「上に伝えます」と答えるに留まりました。

会の方の見事な取りなしで場は収まりましたが、同じ悩みを抱えているお寺がたくさんあることが分かりました。


遅くにつくば市の松っちゃんへ電話を掛け、「ある出来事」について報告。

とは中学3年からの付き合いで、彼の細君であるChikaちゃんや子ども達とも昵懇にしてもらっている。

っちゃんやChikaちゃんとともに、その「ある出来事」に於ける私のとった言動の是非について論じあった。

た、Chikaちゃんから仕事のエピソードを聞いたり、松っちゃん夫妻が今年務めることになった団地の自治会の行事役の仕事の内容などを話しているうちに、気が付けば午前4時になっていた。

回よりは短かったものの、また長電話となってしまった…

いに理解し合っている人とはいつまでも話が尽きないのに、ウマが合わない人とはうまくつきあえない私は、職人気質か?


02年12月の日記帳へ


日記帳の目次へ戻る