※『南御堂』2009(平成21)年6月号 「私と親鸞聖人」欄に寄稿
儀式が持つ力
池田英二郎

 私が僧侶となって初めてご門徒さん宅でお勤めをしたのは、中学生のころでした。得度式を受けたものの、仏教の事など全く知らない門中の小僧が、聞き覚えの正信偈を唱えて回っていただけでした。

 おまいりの帰り道、見知らぬおじさんから声を掛けられました。「念仏を称えていたら地獄に堕ちるのを知っているか?」
 「念仏無間」という言葉を知ったのはずっと後の事で、その質問の意図がわからなかったのですが、私は「念仏に関係なく、僕は地獄に堕ちるんです」と答えました。

 その男の人は意外な答えに戸惑ったようで、なぜそう思うのか、地獄に行くのはいやじゃないのか、といろいろ聞いてきました。今となっては、どのように返答したか記憶はあやふやですが、最後に「ほとけ様が地獄に行けとおっしゃるのであれば、私はそれに任せ従うだけです」と言い切りました。その人は「そうか」と言って、去って行きました。

 やがて『歎異抄』第二条の「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」という聖語と出遇うことになるのですが、あの時「地獄に堕ちても当然ですから」と答えた自分が不思議です。

 本当の地獄を知らない子供だったこともありますが、私は幼い時から自坊の本堂で営まれる法要を見てきました。伝承されてきた真宗の儀式には、見る者聞く者に仏教の本質を伝えるはたらきを持っていると思います。




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