※『南御堂』2008(平成20)年8月号 「優曇華」欄に寄稿
浄土真宗の勤行の意味
池田英二郎

 浄土真宗における勤行の意味について、一般的には「仏恩報謝の念仏」「信心歓喜の相(すがた)」という説明がなされているのではないでしょうか。高倉学寮系の立場から書かれた『禀承餘艸評破』にも「報謝は当流安心の心得なり」と述べられています。

 ところが、相伝教学の立場から著された『禀承餘艸』では、「真宗道場の勤行声明は(阿弥陀)仏の説法であり御教化である」「報謝の義は第二義門なることを知るべし」と述べられています。相伝は《勤行は第一に聞法である》と受け止めているのです。

 『相伝義書』の「今現在説法」を釈する個所を例にとれば、「一宗の安心を獲得すれば、朝夕に見るほどの万物の形相、何れか阿弥陀ならぬことなく、聞くほどのこと説法の声ならぬと云うことなし」(『小経聞記』)と述べられています。安心(信心)に立って一切を見るならば森羅万象一切が阿弥陀仏の説法なのですから、我々凡夫が執り行う仮儀の法会の上に「弥陀の説法の相(すがた)」を見るのは当然です。また相伝は、報謝を否定するものではなく、「念仏だけが報謝」とする考え方を否定しているのです。法から言えば、信を得た者の行い全体が報謝の姿であり、仏事も当然報謝の姿です。でも機の立場からは、罪悪生死・煩悩具足の私には報謝のかけらもない、と言うほか無いのではないでしょうか。

 そこで思い起こされるのは『歎異抄』第九条です。「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろう…」という唯円大徳の問いに対し、親鸞聖人は「これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまいりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし」と答えられています。

 御遠忌に向けて同朋唱和が唱えられる昨今ですが、声を出すことが目的なのではなく、勤行を通して仏法を聞いていくことが大切なのではないでしょうか。




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