※『南御堂』2019(平成31)年1月号 「優曇華」欄に寄稿
相伝教学否定を
行った高倉学寮
池田英二郎

 今日、小谷信千代氏による「親鸞は現世往生を説いたのか」という問題提起以降、往生と還相廻向の理解についての論争が盛んになっていますが、同じテーマの教学論争が東本願寺にありました。

 西暦1800年頃、肥後国に法幢という僧がいました。彼は『禀承余草(ほんじょうよそう)』を入手しただけでなく、述者の真宗寺真詮師から直接教えを受けました。国元でその教えを説き本を書いただけでなく、高倉学寮の所化(生徒)となって京都でも教えを説きました。文化2年(1802年)2月に法幢は異義者として訴えられ、京都に呼び出されて御聞調(ききしらべ)・御糺(おただし)そして御教誡という処分を受けます。

 異安心者を取り締まる権限は、法主から学寮の講師たちへ委ねられていました。法幢の持説を聴取(御聞調)した後、学寮講師の永臨寺深励(香月院と諡号される)と二人の嗣講の三人がかりで法幢に対して問答を繰り返し、法幢が持説を捨てるまで御糺は連日続けられました。文化4年、法幢と肥後国の一類(仲間たち)15名は、自分達の持説は誤りであり、以後は学寮が示した教えに従います、という誓約書(御請書)を提出し、念押しの講義(御教誡)が行われました。

 その間の文化3年8月24日から9月15日にかけて行われた法幢への御糺の席で、深励たちは法幢を相手に相伝家の書である『禀承余草』の三十七ヶ条を一ヶ条ずつ論破し、相伝家の教学は全く東本願寺のものではない、という裁定を下しました。法主の名において相伝教学を否定する事が学寮の目的であったことが、記録の文書から読み取れます。

 宗門内で対立し論争することを幕府は許さないという状況があり、相伝家の仏辺を先にする教学と学寮の機辺に立つ教学は並び立つことはありません。法然上人−親鸞聖人−如信上人−覚如上人と相伝され、以後も本願寺の歴代が相伝し、蓮如上人以降は五箇寺が法主と共に相伝してきた「当家の御己証」(本願寺独自の法脈)は、残念ながらこの事件によって断絶へと向かいました。しかし御堂の荘厳や声明儀式の中に相伝は生き続けています。




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