※『南御堂』2014(平成26)年4月号 「優曇華」欄に寄稿
寄り添う願心
池田英二郎

 子どもが風船を手に持って楽しそうにしていました。何かの拍子に風船は手を離れ、空高く飛んでいってしまいました。その子は泣き出してしまいました。あなたが側にいたら、その子に何と声を掛けるでしょうか。

 「仕方ないよ。飛んでいった風船は、もう戻って来ないから」と言って諭すでしょうか。それとも、「新しいのを買ってあげるから泣かないで」と言うでしょうか。

 「諸行無常」という言葉から、仏教は「もう戻ってこない」という道理を説いていると、私はいつしか思うようになっていました。でも、「風船が飛んでいって、悲しいね」と、その子の思いを受け止め寄り添うことで、その子はやがて泣き止むはずです。

 私は教化センターの教学儀式研究班に身を置いて、故・近松譽一主任から「相伝教学」との出遇いの縁をいただきました。蓮如教学とも言われる相伝の文書・講義録には、私たちに機の自覚を起こすよう迫る表現は一切ありません。摂取不捨する如来からの呼びかけをただいただいていく、という姿勢で一貫しているのです。

 人は迷うものである。そのことを見通された仏の方から願をおこしておられる。願心に遇って仏願にまかせ委ねる心、それを「如来よりたまわりたる信心」と表現されている、と私は理解するようになりました。

 私に向かって「南無阿弥陀仏」と呼びかけ、本堂やお内仏にお姿をあらわして発願のこころを伝えようとはたらきかける阿弥陀仏は、いつも私のところに来ています。そして、私の愚痴をすべて聞いておられます。「仏様に向かって願い事を言うものではない」という声を聞きますが、親鸞聖人のお聖教のどこに書かれてあるのでしょうか?

 『歎異抄』に「聖人のつねのおおせには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」とあります。そのお言葉を、私は今、風船を失った気持ちに寄り添ってくれていた親の心に気づいた子どもの心になぞらえていただいています。




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