※『南御堂』2010(平成22)年3月号 「優曇華」欄に寄稿
勤行声明は仏の説法
池田英二郎

 真宗の勤行について、『生命の足音』23・24号誌上で公開した『禀承餘艸(ほんじょうよそう)』に、「真宗道場の勤行声明は、かたじけなくも普為十方、説微妙法の仏の説法なり」という口伝が出てきます。本山の研修道場で、午前6時の起床時間になると、音楽とともに「両堂でお朝事が勤まります」とアナウンスされていたことが思い出されます。「勤められます」でも「お勤めしましょう」でもなく、「勤まります」という表現に最初は違和感を持ちましたが、先の口伝と符合するのではないでしょうか。

 阿弥陀如来像や聖人の御影、御堂の荘厳は先達の御苦労で建立されたのですが、その根源は如来の巧方便廻向である、という了解を説くのが、本書を生み出した相伝教学の考え方です。

 勤行の声はお荘厳の一部である、という心持ちで難波別院の報恩講におまいりさせていただいた時、それまでに無い感じを覚えました。結願逮夜で正信偈が勤まっていたのですが、声明本を見ないで、お荘厳を見ながら声明の響きを聞いていると、三帰依文の「人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く」の言葉が心に浮かんできました。いつも頭の先で教学の言葉をこねくり回している私ですが、理屈ではうまく説明できないけれど、理屈を超えて私に、参詣に来られている人々に、そして一切衆生に如来するはたらきを、儀式を通じて感じました。

 講師によるお話が法話なのではなく、声明が、そして荘厳それ自体が如来の説法だ、という了解は、あまり一般的ではないと思うのですが、来年に迫っている宗祖の750回忌法要は、宗祖ご自身が念仏のみ教えを説いておられる会座であり、もの言わない御影の宗祖に代わって私たちが行うものです。同朋唱和を聖人にお聞かせするのでなく、聖人のお言葉をいただく、という儀式の根本を再確認する時ではないでしょうか。




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