泥堂山 宗恩寺 の沿革
応仁元年(1467年) 10月 宗恩寺の開基となる池田彌三良が、越前国一乗谷で生まれる。
文明3年(1471年)、蓮如上人は越前吉崎に坊舎を建立する。彌三良の君主朝倉敏景と吉崎の坊官下間安芸法眼との確執により、彌三良は上人から教化を受けられなくなった。
文明7年(1475年) 8月 吉崎坊舎が焼失。蓮如上人退去。
摂津国大坂へ移られた上人のお徳を慕って彌三良は摂津国へ移住。浪速大江辺りに茅屋を構え耕作して暮らす。
明応5年(1496年) 8月 石山へ詣でて蓮如上人に謁し、親り法語を聴き六字尊号を受ける。
(※大坂坊舎の建設が開始されたのは同年9月からとされている。)
永正3年(1506年) 2月 彌三良、石山の実如上人のもとで剃除鬚髪し(得度式を受け)、圓信という法名を授かる。石山本願寺南(上町筋の南端)、四天王寺寺域の北隣地の草屋を道場とする。
元禄16年(1703年) 寺号「宗恩寺」を公称。
安永4年(1775年) 4月 門徒相寄り本堂および庫裡を建立。
安政3年(1856年) 宗祖親鸞聖人600回御遠忌法要を厳修。
明治44年(1911年) 市電敷設による道路拡張のために寺域修正。本堂を移設改築。
大正2年(1913年) 5月16日〜18日 宗祖親鸞聖人650回御遠忌法要を厳修。
大正10年(1921年) 3月 聖徳太子1300年忌法要を修行。
昭和24年(1949年) 都市計画による寺域減少に備え、南側隣接地を購入。
昭和26年(1951年) 5月12日〜13日 蓮如上人450回御遠忌法要を厳修。
昭和37年(1962年) 5月12日〜13日 宗祖親鸞聖人700回御遠忌法要を厳修。
平成28年(2016年) 
5月29日  宗祖親鸞聖人750回  御遠忌法要を厳修。
 中興蓮如上人500回
   
【明治維新後、地名順次改称することおおよそ次の如し】
大阪府東成郡南平野町 → 第5大区1小区一番組(明治8年4月) → 東成郡南平野町字泥堂町(明治12年2月) → 東成郡東平野町(明治22年4月) → 大阪市東区上綿屋町(明治30年4月大阪市に編入) → 大阪市天王寺区上綿屋町1番地(大正14年4月市区改正) → 大阪市天王寺区四天王寺1丁目5番49号(昭和56年3月地名変更)

 宗恩寺の住所は、昭和56年の地名変更で「四天王寺1丁目」になりましたが、それまでは「上綿屋町一番地」で、(旧)上綿屋町の東端に位置しています。境内地の東を幅30pほどの水路(太閤下水)が南北に流れており、ここが(旧)上本町九丁目との境界となっています。

 上綿屋町は、さらに昔は「泥堂(でどう)町」という名前で、宗恩寺の山号の由来ともなっています。それを示すものとして、宗恩寺境内に「念仏橋泥堂町」と刻まれた石があります。おそらくは先に述べた水路に架かっていた石橋の一部で、後述する市電の工事で撤去されたものを引き取ったと伝えられています。この石を見ると、往時の町の風景や生活に仏教が根付いていた様子が偲ばれます。

 明治以後、大阪市は急発展を遂げました。上本町二丁目〜天王寺西門前に大阪市電を通す際に市道拡幅が行われ、沿道に位置する宗恩寺も立ち退きの対象となりました。ご門徒さんから土地などの寄進を受けて、明治44年に再建されたのが現在の宗恩寺です。本堂の木材や金属の仏具は、旧本堂の物が再利用されています。

 太平洋戦争の戦火を逃れ、明治以来の木造で趣きのある宗恩寺の本堂ですが、またもや都市計画道路の拡張予定地にかかってしまいました。次に建て直す時は鉄骨やコンクリート構造にしなければなりませんが、それまではご門徒さんの願いで建立された現在の御堂で、お念仏の法灯を守って行きたいと思います。

2008.5.1記

「念仏橋」

本堂に掛かる「泥堂山」の扁額

内陣の荘厳
宗恩寺 今昔写真館
★宗恩寺の外観★
(上)年代不詳。昭和20年〜30年代と推定される。門前の道路には明治43年(1910年)に開通した市電上本町線の軌道が敷かれている。

(下)2012年4月。市電は1968年に廃止され、代わりに市バスが通っている。

★境内(本堂の前庭)★
(上)年代不詳。「外観」と同じ昭和20年〜30年代と推定される。

(右)2012年4月。ビワの木は無くなっているが、サザンカが成長して繁っている。
※石灯籠は、地震で倒壊する危険があるので、2014年に撤去した。
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