バイオグラフィー


西暦(年) 出来事
1966
この年の4月に大阪市でこの世の生を受けたと聞かされているが、当時の記憶がない。
1969
我が家に黒い服を着た人達が大勢やってきて、みんなに相手してもらったことをはっきりと記憶している。その人達は、祖父の葬儀に集まってくれた親戚であった。これが、その年月日が特定できる私の一番遠い記憶である。
また、この年にお寺の前を通っていた市電が廃止になっているが、門前の道路に軌道と石畳が敷かれていたことは覚えている。
1970
大阪万博で見た太陽の塔は生涯忘れられない。
1971
4月、市立幼稚園に入園(2年保育)。
1972
約2年間、ヤマハ音楽教室に通う。オルガンの稽古はサボってばかりで上達しなかったが、歌唱力は評価されていた。
1973
4月、市立小学校に入学。
(小学校時代)
低学年まではやんちゃで騒がしい子であったが、次第に無口で内向的に変化していった。その理由は本人にも解らない。
音楽教室の基礎課程が終了したので、次にそろばん・習字教室に入れられたが、余りに不真面目で稽古をしなかったため、さすがの両親も私に習い事をさせるのをあきらめた。(本人は練習は嫌いでも音楽は好きで、もっと音楽教室へ通わせてもらえるものだと思っていたのが…)
自転車をねだったが買ってもらえず、親の財布から小銭を抜き取って貯金を始める。その悪事が発覚するも、念願の自転車が買い与えられた。
テレビの「人造人間キカイダー」に登場するサイドカー(サイドマシーン)に憧れる。〔今でもサイドカーに乗りたいという願望は捨てられないでいる。〕
4年生の夏に剃髪し、東本願寺で得度式を受ける。
4年の時に、当時は珍しかった学習塾に入る。以後、6年生まで通い続ける。
6年では塾の宿題をこなす為に、ラジオの深夜放送を聞きながらの徹夜はあたりまえ。人生で一番集中して勉強したと思う。
5年生の頃、プロ野球に巨人・阪神以外のチーム(近鉄バファローズ)があることを知り、ファンになる。
近鉄が78年、阪急との最終戦に勝てば後期優勝・プレーオフ進出という試合に1−4で敗れたことで、却って一層応援をするようになる。
プラモデル作りにも熱中、マンガを描き始める。
1979
猛勉強の甲斐なく、私立中学を受験するも不合格。
4月、市立中学校に入学。
4月7日 日生球場でのパ・リーグ開幕戦 近鉄−西武を観戦。
6月26日 近鉄が前期優勝を果たした大阪球場での南海戦を観戦。8回裏、平野光泰の奇跡のバックホームを見たところで帰宅。
11月4日 のちに「江夏の21球」として語り継がれる近鉄−広島の日本シリーズ第7戦を、大阪球場の外野席で観戦。
(中学校時代)
野球部に入るが、僅か2ヶ月で退部。大手の学習塾に入るが、1年を待たずに退塾。(その塾も、今は倒産してしまった。)
2年生でスキーを初経験。
お盆などの繁忙期に檀家まいりを手伝う。
鉄道模型製作に熱を入れる。
3年生で、生涯の友となる「松っちゃん」と同じ組となる。
1982
4月、府立高校に入学。
(高校時代)
軟式野球部に入部。最初のポジションはショート。夏からあこがれだったピッチャーに転向。秋の大会で背番号1を背負う。
2年生の時、守備練習中の突き指で右中指を骨折(初めての骨折)。後輩に好投手が入ったこともあり、ブルペンキャッチャー(練習試合では審判)に回る。
一時は軟式野球部の練習がない日はソフトボール部の練習に参加し、野球漬けの日々を過ごす。
家庭では電子工作に熱中し、デジタル時計や鉄道模型用のコントローラーを自作する。
この頃レンタルレコード店が誕生。最初に借りたのはアリス。続いて中森明菜、オフコースのレコードを借りた。
高校生活最後のマウンド(3年生OB対現役戦)
1985
4月、予備校に入学。
8月、初めてオフコースのライブを観る(大阪城ホール)。
1986
3月、2度目の国立大受験も不合格。
4月、大谷大学に入学。
(大学時代)
法隆寺自動車学校へ通い、オートバイと自動車の免許を取得。
大学へは自宅から通学。平日は学生、日曜日は僧侶の「二足のわらじ」生活が始まる。
龍谷大と京都女子大の宗教教育部が行っている「子供会」(俗に言う日曜学校)に、龍大に進んだ高校時代の友人や会場であるお寺の住職の好意で参加することになる。(※日校の開催は毎週土曜日の午後でした。)
2回生から写真部に所属。
家庭教師のバイトを経験する。
3回生の頃には、シンセサイザー、シーケンサー、ドラムマシン、多重録音が出来るマルチトラックレコーダー等を購入し、NAGAIくんと2人でオフコースの歌のコピーに励む。
松っちゃんの誘いで、中学校の全体同窓会の運営に携わるようになる。
声明を習い始めたのもこの頃(大阪声明塾の第1期生)。
86年、スーパーカブを購入。事故で廃車になるまでの12年間で4万5千qを走行。 VFRを買うまでは、松っちゃんの愛車「ヤマハFZ250」をよく貸してもらいました。
ハナテン中古車センターでマツダ・ファミリアを購入。(本体価格35万円) 88年、当時のクラス最高性能のマシン「ホンダVFR400R」を手に入れる。(このバイクは2004年まで使用。)
1990
4月、大学院修士課程に入学。
(大学院時代)
90年から本山(東本願寺)の中央声明講習を受講。
90年はカメラマン、91年はピットクルー(ヘルパー)としてオートバイレースに参加。
その為に300ミリ望遠レンズを購入。ロードレースの撮影に凝る。
92年にライセンスを取得してレース活動を開始。鈴鹿サーキットの「ルーツ・ザ・レース」とTIサーキット英田の「モト・ルネッサンス」に参戦。最高成績は鈴鹿でクラス7位。
TIサーキット英田での走行会にて。
マシンはホンダCB77
バイクショップ(カブやVFRを購入した店)の店主の紹介で、ラジオ大阪の番組に就職活動中の学生として出演(これって「やらせ」では…)。ギャラは7,000円だったかな…。
92年から副住職に。檀家まいりの合間に京都へ足を伸ばしゼミと語学の授業に出席する生活に入る。
1995
1月17日、阪神・淡路大震災発生。その夜、叔父一家の安否確認と物資輸送で大阪−西宮をバイクで2往復。
3月、大学院を満期退学。
天王寺中学校同窓会の役員(事務局長)に就く。
中央声明講習別科を修了、准堂衆補を拝命。
11月、准堂衆補として東本願寺の報恩講に初めて出仕(7昼夜)。
1996
レース用のマシンをホンダSS50に変更。エンジン、車体の組み立て・整備も自分だけで行う。
1997
モトクロス(エンデューロ)用バイクの中古を購入、ロードからモトクロスに転向。
1998
4月、長女を授かる。
5月、モトクロスレースに出場。(法務などが多忙になってきたため、このレースを最後にレース活動を休止。)
その翌日、交差点で右折してきた車両と衝突し、仕事用のスーパーカブは全損→廃車となる。
6月、尿管結石で8日間入院(初の入院生活)。退院した日の午後、准堂衆会総会に出席。
准堂衆会が制作する同朋奉讃勤行集CDの録音に参加。
12月、喜納庄吉氏の企画に賛同して、准堂衆会のメンバーらとニューヨークへ。ネイティブアメリカンと交流。
1999
法務と准堂衆会の事務に忙殺された1年。
2000
叔父から不要になったパソコン(Windows95時代のNEC製PC−98)を譲り受けたが、日常は日本語ワープロで事足りていたので放置したままでいた。
その叔父が余命幾ばくもない病であることが分かり、「もらったパソコンを使っていますよ」と報告できるように必死でマスターした。見舞いに伺って報告をしたら、叔父は笑って頷いてくれた。翌日、叔父は亡くなる。Windows98の時代となり、PC本体は買い換えたが、叔父からもらったパソコンのモニターを使い続けた。
ケーブルテレビ(シティーウェーブ大阪)の近鉄バファローズを応援する番組に出演。
7月、大阪教区教化センターに新設された教学儀式研究班研究員に。
12月、准堂衆会主催、タイ国のクワイ河鉄橋での戦争犠牲者追弔法要に参加。
法務と、准堂衆会の新聞作りに忙殺された1年。
2001
本の共同執筆の依頼を受ける。
新聞作りに加え、儀式作法の資料作成と本の原稿作りであっという間に終わった1年。
2002
本の原稿を脱稿、7月に本(『真宗入門Q&A』)は無事出版された。
10月、ホームページを開設。
2003
1月、准堂衆会主催で、法要を目的とした旅行に参加し、カンボジア・ベトナムへ行く。
2004
4月、フランス・パリへハネムーン。
5月、ラブラドール・レトリーバーのさくらを飼い始める。
7月、全国准堂衆会主催の非戦・平和法要 in ヒロシマに裏方として参加。
2005
4月、大阪市内で7番目に誕生した総合型地域スポーツクラブの「天王寺スポーツ倶楽部」の常任理事に。
4月下旬、頸部椎間板ヘルニアを発症。
7月、台湾の台北へ観光旅行。
12月13日、本山で宗恩寺住職の任命を受ける。宗恩寺代表役員に就任。
12月末で天中同窓会事務局長を辞任。
2006
4月、「天王寺スポーツ倶楽部」の理事に。引き続きHPの管理を担当することに。
4月22日、宗恩寺住職襲職法要。
7月 全国准堂衆会役員(書記)の任期満了。大阪教区准堂衆会書記に就任。
2007
2月、ひろしまドッグパーク出身のラブラドール・レトリーバー、コロを迎入れる。
4月、時間が割けないので、「天王寺スポーツ倶楽部」の理事を辞任。HPの管理は継続して担当することに。
2008
7月、事実上一人で執筆した『真宗大谷派 儀式作法の心得』が出版される。
11月 3匹目となる雑種犬「トト」を迎え入れる。
2009
12月 編集に携わった『真宗ハンドブック』が出版される。
2010
4月 大型自動二輪免許取得。
5月 5年間も校正作業に携わってきた『真宗相伝叢書』が全巻刊行される。
9月 父を亡くす。
12月 大阪教区第2組の副組長に就任。
2011
4月 天王寺区仏教会の理事を辞職。区仏納税組合の副組合長に就任。
5月 東本願寺の宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要に助音加勢の准堂衆補として出仕。
7月 大阪教区出版会議の委員に就任。
10月 本山から准堂衆を拝命。
11月 サイドカー(BMW製K100RS+NKオート製ロードセイラ−V)を購入。
2012
3月 東本願寺での東日本大震災一周忌法要に出仕。
7月 大阪教区准堂衆会の副会長、近畿連区准堂衆会役員(書記)に就任。
2013
4月 大阪教区・難波別院 宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要に出仕。
6月 南御堂シアター in 大船渡における東日本大震災犠牲者追弔法要に出仕。
7月 大阪教区准堂衆会会長に就任。
12月 中古のBMW製オートバイ(K1200S)を購入。
2014
3月末 任期満了につき第2組副組長を退任。
4月 八尾別院大信寺 宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要 結願日中に出仕。
5月 茨木別院 宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要 結願日中に出仕。
5月末 大阪教区教化センター研究員の任期満了。
6月末 大阪教区出版会議委員の任期満了。
7月 大阪教区教化委員会の専門部会「儀式・法要部」委員に就任。
12月 准堂衆会会長として、インドにある仏教遺跡の霊鷲山で宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要を行う。
2015
4月 天王寺区仏教会納税組合の組合長に就任。
6月 車で走行中に衝突事故に遭う。
7月 近畿連区准堂衆会の副会長に就任。
10月 天満別院 宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要 結願日中に出仕。
2016
6月 大阪教区教化センター紀要別冊で「禀承餘艸 および 禀承餘艸評破」修正版を発表。
9月 BMW製オートバイ(K1200S)を手放す。
2017
7月 大阪教区教化センターの教学儀式研究班研究主任に就任。
2018
6月 難波別院で初めての定例法話。
9月4日 台風21号で被災。実家のテラスが倒壊し、山門の瓦などが落下。
2019
3月 『真宗』誌の企画で、「儀式を考える」座談会に参加。(6月号に掲載される。)
6月 停車中に追突事故に遭う。
11月 サイドカーを手放したことで、保有するバイクが無くなった。
2020
4月 大阪教区第2組の副組長に就任。
7月 近畿連区准堂衆会会長に就任。
2021
2022
7月 近畿連区准堂衆会会長を退任。





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