【その3】 なぜ阿弥陀如来をまつるのですか

本当の信心とは、阿弥陀如来のはたらきを感じる心、わが身が阿弥陀の摂取(念仏者をおさめとってまもること)の中にあることをあきらかにする自覚です。


親鸞聖人は『浄土和讃』で「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」(聖典486)と詠(うた)われています。


つまり、真宗の教えに出遇い信心に目覚めた者にとって、阿弥陀如来は「畢竟依(ひっきょうえ)」といわれるように真の心の拠(よ)り所なのです。


しかし、阿弥陀如来の本当のすがたは「いろもなし、かたちもましまさず」(『唯信鈔文意』聖典554)と言われるように、私たちには見えません。常日頃から仏法を聴聞しお念仏を申していなければ、阿弥陀如来のはたらきになかなか気づかず、考えもしないものです。


お内仏のお参りは、私たちが「信心」をいただき「念仏の衆生」となる意味をもった仏事なのです。名号、絵像、あるいは木像の阿弥陀如来をお荘厳して、「南無阿弥陀仏のいわれ」を聴聞しつつお念仏をする生活の中で、私たちを「つねにてらし、つねにまもりたまう」(聖典525)阿弥陀如来に出遇っていくのです。


親鸞聖人は『教行信証』の「行巻」で「かるがゆえに知りぬ、帰命すなわちこれ礼拝なりと。しかるに礼拝はただこれ恭敬にして、必ずしも帰命ならず。帰命は(必ず)これ礼拝(らいはい)なり」(聖典168)という『論註』の文を引用し、また「信巻」では「真実の信心は必ず名号を具す」(聖典236)と述べられています。


蓮如上人は「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ」(『蓮如聖人御一代記聞書』聖典868)と勧めておられます。信心に目覚めた人はもちろん、まだ信心を得ていない人はなおのこと、ご本尊の前で礼拝し、仏法をよく聴聞して、本願念仏の道を共に歩んでいきましょう。


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